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2015年06月07日

達磨寺


  臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれている。1727年に大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 つまり禅寺だが、僧侶ではなく室町の両替商(荒木)によって勧進された庶民的なお寺である。
 三国一を称する起上がり達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ一万余を祀る達磨堂は特に有名である。いたる所に達磨のオブジェがある。
 親戚の家が近くにあるので、節分に行ったことがあるが、大勢の参詣者でにぎわっていたのを覚えている。 確かお守りと小さな達磨を買って帰った。 その時写した達磨寺の庭の写真を探したが、整理が悪くて見つからなかった。 そこで秋の日に前を通りかかったときに、黄色いコスモスに目を惹かれて、カメラを向けたときの写真があったので、これを載せることにした。 いつでも行けるという気安さがある。また親戚のうちへ寄った時にでも更新しておきます。 1枚目は、同じ時に写した入り口付近。芙蓉の花が話しかけてきた。
 京都には「通称寺の会」と言うのがある。この寺のように正式名は「法輪寺」だけれど、通称名(達磨寺)の方で通っている寺が宗派を超えて集まって会を作っているのだ。
 他には、例えば秀吉が茶を飲みに立ち寄ったという「茶くれん寺」(浄土院)、「蛸薬師」(永福寺)、「千本ゑんま堂」(引接寺)、「猫寺」(称念寺)、「釘抜きさん」(石像寺)・・・などなど。
 通称寺のフォークロアを聞いて歩くだけでも楽しい。
 確かに「引接寺はどこにありますか」などと問われても京都人は誰もが首をかしげるだろう。
 ここは先に紹介した荒木なる人物が奉安した起上がり相の達磨大使坐像がきっかけで、参拝者が達磨を寄進するようになったので、達磨寺と呼ばれるようになったそうだ。

 〒602-8366 京都府京都市上京区行衛町457  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月07日

松林寺


通称を「やす寺」という。1608年建立。寺域は聚楽第の外堀跡と推定される。
 「やす」は安産の安。開基の清印上人が、「重病の母の回復を祈願した時、薬師如来が現われ、安産や婦人病に効験あらたかな秘薬の処方を伝授された」という説話に由来する。
 場所は智恵光院通出水下ル。龍馬を斬った見廻組の宿舎であったとも伝えられる。
 京都の12月は北山しぐれにふられる季節。晴れているからと、うっかり傘も持たずに出かけると、しぐれにあって濡れ鼠ということになる。西陣の街を歩くのが好きだが、やはり、この日もしぐれていた。傘をさしたり、たたんだりしながら路地を歩くうちに、松林寺の前に来た。山門から本堂まで、なだらかな石段になっている。聚楽第の外堀跡だったと言われれば、そうかと頷ける。
 山中醤油店の裏の黒い塀が奥に見える。下立ち売り通りに面した醤油店の表には小さな庭があり、水車が回っている。夏などは、この水車のそばで秋海棠が咲いている。
 今年は年末まで忙しくしていたので、「だいこん焚き」にも行けなかったななどと思いながら、そぞろ歩いていた。近くには平安宮内酒殿跡が発見された場所もある。久しぶりに底冷えのする一日だったので、熱燗でも一杯ひっかけたくなった。

 〒602-8174京都府京都市上京区智恵光院通出水下る分銅町575  
タグ :洛中


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2015年06月07日

本隆寺


 法華宗真門流の総本山で、正式には本妙興隆寺と云う。 開祖である日真は、長享2年(1488)に妙顕寺を出て、四条大宮に本隆寺を開創した。後柏原天皇等の支援を得て法運は隆盛するが、天文の法難に遭い、諸堂は悉く消失し、一時泉州堺に避難する。
 平和や人の幸せを求めるはずの宗教が、歴史の中で時として戦争の引き金となってきた。そして古今東西を問わず、多くの人々がその犠牲になっている。京都も同じである。その一つに、天文法華の乱があり、日蓮宗の寺院がことごとく焼け落ちた。現世利益を説いた日蓮宗は、その当時としては異端であった。
 現在地に移転後、享保・天明の大火では本堂・祖師堂・宝庫は奇跡的に残り、俗に不焼寺(やけずのてら)と呼ばれる。
 裏に雨宝院があり、親せきの家も近くにあるので、よく来る寺の一つである。
 祖師堂のそばにある松の木は「夜泣き止め松」(写真)と呼ばれ、五世の日諦上人が養育を頼まれた赤子の夜泣きに困った際、題目を唱えながらこの松の木を回ると泣きやんだという故事からくる。
 春は桜、夏はサルスベリがきれいだ。洛中の寺は皆同じだが、町並みの中に溶け込むように立っている。 というより、寺領を囲むように(残して)町並みがあると言った感じだ。 うっかりしていると見過ごしてしまう。

〒602-8447 京都府京都市上京区智恵光院通五辻上る紋屋町330
  
タグ :洛中


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2015年06月06日

五条天神


 天神さんというと菅原道真公を祀っていると思われるが、ここは道真公ではなく、少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀っている。海の彼方から来て、大国主命の国造りを援助した神とされる。
 五条天神の脇を通っているのは松原通りであるが、実は秀吉の都改造までは、ここが五条通りであり、清水の参道だった。今は小さな境内しか残っていないが、かってはこの辺りは広大な杜であったらしい。
 今は小さな境内だが、例年大晦日と節分だけは多くの参拝者が集まって、護符・宝船の画を求め、お守りとする。
 今年の大河ドラマ(2005年)は義経であるが、「義経記」によると義経と弁慶が初めて出会った場所が、ここ五条天神の杜の椋の木の下であった。
 通りで、もう一つ話しておかなければならないのは、この社の裏を通っている天使突き抜け通りだ。別にキリスト教のエンジェルとは関係があるわけではない。ただ、昔は広大だった五条天神の杜を突き抜けて開設されたために、こう呼ばれるようになった。
 久しぶりに寄ってみたら、松原通りの松原京極商店街には「弁慶と義経ゆかりの街」と書いた黄色いのぼりが道の両端に賑やかに吊されていた。

 〒600-8459京都府京都市下京区松原西洞院西入天神前351  
タグ :洛中


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2015年06月06日

六角堂


 正式な寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開祖は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。  ここは今はオフィス街の一角、烏丸通りから少し入ったところにある。 写真は本堂。 確かに六角形をしている。
 京都の中心部にあるので、ビルの谷間になってしまっている。
 境内にへそ石と呼ばれる石がある。  桓武天皇が京都へ遷都の時(793年)、元の六角堂の所在が道路の中央に当ったので天皇が遷座を祈願し、御堂を五丈ばかり北へ移設。この石はその際に取り残された礎石であると伝えられている。
  親鸞上人がこの寺に百ヶ日間参篭して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
 二十代前半の頃、親鸞には恵信尼(エシンニ)という恋人がいた。後に妻となる人であったが、釈迦の決めた戒律では僧侶は結婚してはならない。しかし、彼女を愛している。この矛盾に悩み (通説ではそうとも言われているが菩薩僧になれなかったのが本当のところではないか) 十二年間修行を積んだ叡山を下り、この六角堂で百日間参篭した。この時、親鸞の夢に聖徳太子が現れ霊告を受け法然の門弟となる。
 霊告にて聖徳太子の姿をした観音菩薩は、自らの祈願を述べ偈を誦し、願いの趣旨を人々に説き聞かせよと親鸞に命じた。
  本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くの生け花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名、現在も池坊華道の拠点となっている。
 八代将軍足利義政の時代には、床の間には必ず立て花を飾るようになり、同朋衆の中にもそれを専門とする人が現れた。立阿弥、文阿弥という名が立て花の名人として伝えられている。
 1462年に当寺池坊の専慶が佐々木高秀の招きを受け、金瓶を花器として用い種々の草花を活けたところ、洛中の大評判となって見物人がひきもきらなかったと史料「碧山日録」にある。

 〒604-8134 京都府京都市中京区六角町東洞院西入堂之前248  
タグ :洛中


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2015年06月06日

錦天満宮


 錦の天神さんとして古くから親しまれている。参道の鳥居は両脇のビルに突っ込んでいる。神社の前は新京極の繁華街と接しているので、人通りは絶えない。
 参道を真っ直ぐ行くと錦市場である。ここへ行けばたいがいのものは売っている。私も仕事で近くを通って帰るときは、ここへ寄って酒の肴などを買って帰ることがある。
 幼い頃、母に連れられて買い物のお供を何度かした記憶があるせいか、親しみのある商店街だ。
 錦通りは平安時代には幅員12メートルもあり錦小路と呼ばれたが、今は3メートル程しかないうえに、観光客も押し寄せるので、いつも混雑している。
 江戸時代の頃から、通りに魚だな、青物市場が造られ、公認の食品市場が形成されていったという。
 もちろんここも天神さんだから、牛と梅、そして菅原道真公が祀られている。
 境内にある井戸には「京の名水」(にしきのみず)が今でも湧き出ていて、ペットボトルで汲みに来る人も多い。
 平安時代は洛中にあったが、豊臣秀吉による都市計画により、現在の地に移された。2月下旬に訪れたのだが、境内には紅白の梅の花が咲いていた。

 〒604-8042 京都府京都市中京区新京極通四条上中之町537  
タグ :洛中


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2015年06月06日

瑞泉寺


 寺名は豊臣秀次の法名瑞泉院にちなんで付けられた。秀次らの菩提を弔うために、この寺を建てたのは高瀬川を開削した京都の豪商角倉了以である。
 秀次切腹の後、妻子ら三十九人の処刑が秀吉の命によって三条河原で行われ、遺体はその場に埋められ、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が置かれた。
 これが後の鴨川の洪水で壊れ、遺骨が散乱する事態となり、これを集めて墓所とされたのが瑞泉寺である。処刑は公開で行われ、三条大橋は見物衆で溢れた。
 諸説あるが、秀次は犠牲者だったと思える。幼い頃から、叔父秀吉の政略に利用され、その後、秀吉に子がなかったため、養子となって若くして関白にまでなった。
 しかし、その後、秀吉に実子秀頼が生まれたため、謀反の疑いを掛けられ、二十八歳の若さで切腹させられたのである。母が秀吉の姉でなければ、平凡な百姓として長生きしたかもしれない。
 寺は繁華街の一角にある。私も何度もこの前を通っているのだが、今回寺内に入ったのは初めてだった。境内には秀次の墓所とこれを囲むようにその妻子らの墓が並んでいた。その脇に椿の花が咲いていた。
 諸説の中に、秀次が学問好きであり、学問の保護と奨励者であったという説がある。また、暴君であり殺生関白とも言われているが、どうもこれは創作であるように思える。
 今回、秀次についての資料を読み漁る内に、秀次が城主であった近江の八幡山城へも行ってみたくなった。

 〒604-8002京都府京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114−1  
タグ :洛中


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2015年06月06日

本能寺


 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀の謀反により自害した「本能寺の変」を思い出す人が多いでしょう。
 しかし、「本能寺の変」で信長は自刃するとき、女性や御坊を逃がし寺に火を放ったので、焼失しています。
 今は何度かの再建により、場所も移され、河原町御池の繁華街の近くに建っている。
 境内に宝物館があり、寺の宝物や信長の遺品などが所蔵、展示されている。
 信長は晩年、権力を手にするために自己を神格化しようとした。つまり神になろうとした。宗教勢力との戦いから学んだのか、これもまた信長の政治宣伝だったのかはわからないが、後を継承した秀吉も家康もこれに習っている。 信長を祀った安土城は焼けてしまったが、後に明治天皇が船岡山に建勲神社を建て、信長を祀った。
 信長は宗教勢力を弾圧したわけではない。ただ、信長の正義としては、宗教家が人をだましたり、宗教団体が武力を持って勢力を拡大したりするのが許せなかったのである。
 今でこそ、日本人は無宗教だと言われるが、信長が生きた時代は狂信の徒が宗教の違いによって、殺し合いをしていた。四百年前に信長が、そうした宗教勢力を皆殺しにしていなければ、日本も政教分離に未だに悩んでいたかもしれない。そう思うと信長の功績は大きい。和の国であった日本が一時的に、戦国の世になったのも、旧来の政治、社会秩序、宗教等が行き詰まっていたからであり、それを信長は一掃してくれたのである。 現在の日本も同じような閉塞状態にあるが、現代の信長は現れるのだろうか。否、我々一人一人の改革が必要なのかも知れない。
  境内の奥には信長の供養塔がある。  信長の墓や供養塔は京都市内だけでも3、4ヶ所ある。本能寺の変で寺といっしょに信長は焼けているので、遺骨はみつかっていない。だから、どの寺(墓)にも遺骨は埋葬されていない。
 ただ、阿弥陀寺には遺灰が清玉によって持ち帰られたと言われているが、あそこも何度か移転しているので、今も残っているかは定かではない。
  「本能寺の変」当時は四条西洞院にあり、30余坊を構える大寺院だった。
 今はこのあたりは小学校や町屋になっていて、小学校の正門横に本能寺跡の石碑が建てられている。
 最近(2002年12月下旬)、通りかかったら、校舎を新しく立て替えるらしく、その前の発掘調査が行われていた。

 京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522  
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2015年05月31日

上品蓮台寺


 聖徳太子が開創したと伝えられる古刹。蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺。聖徳太子が創建した当初は香隆寺と称したが、960年宇多法皇の勅願により、寛空僧正が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれる。
 当時は、広大な寺域に伽藍が建ち並び壮大なものであったらしいが、ここも京都の多くに例に漏れず、応仁の乱の兵火により焼失してしまった。後(1596年)に性盛上人が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれたが、現在支院は三院を残すのみとなっている。
 本堂には村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には本尊延命地蔵菩薩像を安置している。他にも国宝等の文化財を多く蔵している。
 ここは隠れた桜の名所である。寺の前は千本通りだが、少し下がると千本ゑんま堂があり、東へ行くと西陣の街中にいくつかの寺が点在する。春は桜を求めてこの辺りを徘徊する人も多い。
 平安時代の代表的な仏師・定朝の墓があり、毎年11月1日に全国の仏師が集まり法要が営まれる。

 〒603-8303 京都府京都市北区紫野十二坊町33−1  
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2015年05月31日

千本ゑんま堂


 正式名称は引接寺。いんじょうじと読む。光明山と号す真言宗高野山金剛峯寺に属する寺であるが、京都の人には「千本閻魔堂」の方が通りがいい。
 後一条天皇の寛仁年間、定覚律師が法界四生のために大念仏をはじめたのが起こりとされる。本尊に3m近くある閻魔像を祀る。
 今は千本通りの商店街に面して建っているが、昔はこの辺り一帯は千本の桜といわれた程に、たくさんの桜が植わっていた。
 境内の十重の紫式部供養塔横に植わっている桜は「普賢象桜」という珍しい種類の桜である。(写真)桜の花の中から出る幼葉が、普賢菩薩が乗る像の鼻のように見えることから、ゑんま堂普賢象桜という名が付けられた。
 しかし、この桜は房ごと落花するため実も種も取れない。ならどうして生まれるかと言えば、まともな桜が多くある中に突然変異のように生まれるのだという。
 足利義満の時代に桜の盛りを期して念仏狂言がとり行われた。それが今でも春の大念仏狂言として残っている。(毎年5月1日から4日) 夏は盂蘭盆会に精霊迎えでにぎわう。
 近くには上品蓮台寺がある。桜の咲いている頃(4月上旬)なら、ここの普賢象桜を見た後、上品蓮台寺へも寄られるといい。小さな寺だが、境内を覆うように桜が咲いている。隠れた名所である。
 千本通りを横切って、商店街を下れば釘抜き地蔵がある。

 〒602-8307京都府京都市上京区千本芦山寺上閻魔前34  
タグ :洛中


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2015年05月31日

大将軍八神社


 平安建都の際に、桓武天皇が怨霊封じのためのシステム(結界)として導入したものの一つとして、この大将軍社があった。
 大将軍とは、陰陽道にいう太白(金星・西方)の精で、方位をつかさどる神である。このため、昔から建築、移動、旅行などに関して世間の崇敬を集めてきた。
 境内の保存庫には、武装像、束帯像、童子像など合わせて七十九体の重要文化財に指定された「神像」が安置されている。
 京都にある神社仏閣の例にもれず、この神社も街に溶け込んでいて、うっかり見落として、その前を通り過ぎてしまうこともある。間口はけして広くない。
 京都には京都人の食をまかなう商店街がいくつかある。その一つが観光客もよく訪れる「錦市場」だが、あそこはどちらかというと御客さん用である。ここ大将軍社の前にある北野商店街は、京都人の一般家庭の台所である。

 気どってなどいない、京都の素顔に合える。 値段も安い。 京野菜や駄菓子、漬物、川魚、普段着、金物・・・なんでも揃っている。
 北野商店街をまっすぐ東へ歩くと千本商店街に突き当たる。
 大将軍の祭りは豪快だ。写真は西大路通りの交差点の真ん中で、神輿を持ち上げているところ。(10月の第4日曜)
 近くには散椿で有名な椿寺もある。

 〒602-8374 京都府京都市上京区一条御前西入3西48  
タグ :洛中


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2015年05月31日

福勝寺・左近の桜


 河内国(大阪府)古市郡中村に真言宗善通寺派の寺として創建されたが、1257年に覚済上人によって京都へ移された。
 歴代皇室の尊崇あつく、後陽成天皇のときに勅願寺とされ、後西天皇は紫宸殿の正面階段下の東側にあった左近の桜を分栽された。 当時は桜寺とも称された。 しかし、この左近の桜は近年枯死し、今はこれにかわる二代目の桜が植えられている。
 他にも左近の桜は雲ヶ畑の福蔵院にも植え継がれている。
  豊臣秀吉が武運を祈願して千成瓢箪を寄進し、千成瓢箪を旗印に頂いたので通称では「ひょうたん寺」とも呼ばれている。 
 最近では京都市中心部の観音霊場をめぐる洛陽三十三所観音巡礼が、明治時代初期以来百数十年ぶりに再興された。福勝寺も札所の一つに数えられているので、公開されるようになった。
 それまでは年に一度、節分のときしか開かれていなかった。 節分にはひょうたんのお守りが授与される。 
 この日は門が開いていたので、満開の左近の桜を見ることができた。 
   いにしへの雲井のさくら移しあれば
          又春にあふ御代ぞしらるる

 〒602-8359 京都府京都市上京区七番町323−1  
タグ :洛中


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2015年05月31日

椿寺


 正式名称は昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。 726年に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりとされる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代の初期に戦火で消失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、1589年に豊臣秀吉の命によって現在の地に移った。
 地蔵堂に安置されている鍬形の地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝えられる。書院の前庭には、かって有名な「散り椿」があったが、今は枯れてしまって、二代目の樹齢百年の椿が毎年五色の花をたくさん咲かせてくれている。
 初代の散り椿は、加藤清正が朝鮮蔚山(ウルサン)城から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに地蔵院に献木されたものであった。
 秀吉は晩年、自己肥大が昂じて、朝鮮へ首都を移し、中国をも我がものにしようという妄想を抱いた。平和に暮らしていた朝鮮人にとっては、いい迷惑であった。
 京都には椿の名所が多い。清正が持ち帰った散り椿は種子がよくできたとみえて、市内には、この品種の子孫も多いと聞く。
 後に朝鮮から来た僧によって里帰りし、蔚山でも、また根付いたという。
 子規の句に
  「椿寺の椿の花は散りてこそ」 
   というのがあるが、確かによく手入れされた苔庭の落花の風情を訪ね来る人も多い。

 〒603-8332 京都府京都市北区大将軍川端町2
  
タグ :洛中


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2015年05月30日

京都最古の千本釈迦堂?


 正式名は大報恩寺。
 国宝の本堂は1227年建立の京都最古の建造物です。 おや?と思われるかも知れませんが、京都の町は「応仁の乱」により、ほとんど焼失してしまったので、焼け残ったこの寺が最古となってしまったのです。
 応仁の乱の戦場において、この寺が山名宗全を総大将とする西軍の陣(本営)であった。 これが西陣の地名の名残りである。
 本堂の柱にはその時の槍傷が今も残されている。
 ついでに書いておくと細川勝元の方(東軍)の陣は花の御所(室町第)であったが、ここは今は残っていない。 応仁の乱は京都の中心が主な戦場となったため、洛中のすばらしかったであろう建物は全て灰燼に帰した。残念な事である。
 こんな歌が残っている。
 「汝(なれ)やしる都は野辺の夕雲雀あかるを見ても落つる涙は」
 ヒバリは巣を普通、一面の野原(荒野)にしかつくらない。いかに応仁の乱は京の全てを灰にしてしまったかということである。
 だから今日見る京都の古い建築物は、大半が豊臣氏や徳川氏によって再建されたものなのである。
  足利義満将軍が「明徳の乱」にて倒れた兵士の追福のため建てた北野経王堂願成就寺の大堂を縮小して移設された小堂が参道脇にある。

 〒602-8319 京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町1034  
タグ :洛中


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2015年05月30日

立本寺の蓮


日蓮宗の本山で、具足山と号す。1321年に四条大宮の地に日像上人が京都最初の道場として開いた妙顕寺竜華院に始まる。1413年に比叡山の衆徒に破却され、その後、立本寺として再興。
 勅願寺や幕府の御願寺となり、町衆の信仰を得て隆盛を迎える。天文法華の乱に再び焼かれたあと転々とするが、1708年の大火で焼亡後、現在の地に移った。明治維新前は20か寺の塔頭を擁したが、今は4か寺を残すのみ。 
 春は桜の名所。7月になると山門に「今年も蓮の花が咲きました」と書かれた札が立てられる。この札につられてやって来た。
 聞くと今年(2006年)の10月に完成を予定している客殿前の庭が修復中であるという。お願いして拝観させてもらった。
 本殿と客殿は渡り廊下で結ばれている。築山だけの池のない枯山水庭園となっている。 四十九世住職の日倒上人により作庭されたものであるという。
 西側には枯滝と見られる石組みがあるらしいが、まだ鬱蒼と木が生茂っているので見えない。鳥や風が運んだ種が育ち、何年も、否何十年もそのままにされていたのだろう。
 日蓮宗は折伏(他宗との法論)というイメージが強かったため、日蓮は元より、弟子達も度重なる法難に遭っている。 日蓮宗の和尚に話を聞かせて頂いたことがあるが、やはりその印象は拭えなかった。そう言えば新宗教として有名な創価学会(日蓮宗系)に友達が若い頃入ったと聞いていたが、今はどうしているだろ。
 法華経にある「星を砕いてばら蒔き、その一つ一つが人となった」というような話は、科学的にも人は星の衝突によってできた鉱物が核となって生まれたという話と合致する。

 〒602-8345京都府京都市上京区七本松仁和寺街道上一番107  
タグ :洛中蓮の花


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2015年05月30日

妙顕寺


 具足山妙顕寺と称し、日像聖人が朝廷より寺地を賜り、創建(1321年)した関西で最初の法華霊場である。
 日像聖人は十三歳の時、都に入り法難(三度の追放)にも負けずに「南無妙法蓮華経」の布教に勤め、二十七年の後に朝廷より新宗派を許され、布教の大基盤を創った。
 豊臣秀吉は、天正11(1583)年大坂城造営に着手すると共に京都では妙顕寺を聚楽第が造営されるまでの間、首都経営の拠点とした。
 それに伴い寺院としての妙顕寺は、現在の寺之内地区に移された。
 当時の妙顕寺城の跡を示すものとして古城町があり、妙顕寺城跡の石碑がある。
  近くには本法寺、宝鏡寺、報恩寺、茶道の裏千家を開いた今日庵、裏千家センター(茶道資料館)がある。また、応仁の乱の激戦地跡などもある。
 京都の町は応仁の乱によって、一面の焼け野原となった。堀川を挟んで、東側(細川勝元)と西側(山名宗全)を合わせて二十七万の軍勢が対峙した。
 この日は庭園も公開されていた。本法寺や報恩寺の桜を見た後、ここの枝垂れ桜を見にやってきた。ここは紅葉の頃も美しい。 京都では裏道を歩いているといつの間にか広大な寺の境内へ導かれることがあるが、妙顕寺もその一つだ。
 本堂前の石灯籠は妙顕寺型といわれて著名なものらしい。東隣の塔頭泉妙院には絵師・緒方光琳の墓がある。

 〒602-0005 京都府京都市上京区妙顕寺前町514  
タグ :洛中


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2015年05月30日

宝鏡寺の人形展


 この前に来た時は閉門(16:00)の時間を少し回ったところだったので、中へは入れずに帰ったのですが、今回は午前中に出かけたので、庭を見ることができました。  人形展として開門しているのですが、私の目的はもちろん庭の方にあるのです。 人形展は3月1日~4月3日までとなっています。
 ここは別名を百々御所とも呼ばれています。  これは、歴代に皇女方が出家入山されたことからきています。  室町幕府八代将軍足利義政の妻日野富子の御木像がまつられている。 富子と義政と聞けば応仁の乱を思い出す人は多いだろう。
 この寺の本尊は膝の上に鏡を持たれた座像観音だという。伊勢二見ヶ浦で漁師の網にかかって引き上げられたという伝説がある。
  椿や桜もいいが、一度伊勢撫子の赤い花が見てみたいものだ。 話では、宝鏡寺では代々咲きつがせてきたそうである。赤いと言ったが、花の色は白、臙脂、淡赤といろいろあるそうだ。残念ながら、花時には拝観されていないので見ることができない。
 当時の有栖川宮が植物の大好きな光格天皇に献上したというこの伊勢なでしこの種を、光格帝は宝鏡寺に入った女宮に、本尊にちなんで与えた。その時の植木鉢(百個)がまだ残されているとも聞く。
 
 〒602-0072京都府京都市上京区寺ノ内通堀川東入ル百々町547  
タグ :洛中


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2015年05月30日

妙蓮寺の芙蓉


 本門法華宗の大本山で、日像上人を開基とする。
 度々、法難に遭い寺地をかえ、1587年に豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、現在の地に移った。現在の建物は1788年天明の大火後の再建である。  寺宝は長谷川等伯一派の筆になる金碧濃彩障壁画など重要文化財指定が多数ある。
 最近では芙蓉の寺として有名だが、銘椿・妙蓮寺椿(2~3月)の発祥地でもある。
 本堂前には春を彩る御会式桜(オエシキサクラ)があり、日蓮上人が入滅された10月13日前後から咲きはじめ、お釈迦様生誕の4月8日頃に満開となる。  毎月12日には手作り市・フリーマーケット「西陣楽市楽座桃山文化村」が開催される。
 最近よく西陣を歩く、または自転車で散策する。昔ながらの紅殻格子の町屋を見ながら過ぎる。
 軒先に家人の丹精込めた草木の花が咲いている。季節の花を見て歩くのが楽しい。植物園や寺の庭で育てられた花もいいが、町屋の野花もいいと思う。  大通りは通らず、出来るだけ細い路地をゆく。
 日蓮は「南無妙法蓮華経」ととなえながら、ドンドンドンドンと景気よく太鼓をたたいた。日蓮には浄土教のような無常観はない。あの世ではなくこの世で力強く生きる事を説いた。京都では商人に日蓮宗が多い。日蓮宗は室町時代に京都に進出し、寺がたくさん造られた。
 ところ:上京区堀川通寺之内西入ル

 2枚目の写真が十六羅漢石庭。桂離宮の造園を指図した妙蓮寺の僧、玉淵坊日首の作。中央の大きな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この石を涅槃像に見立てて、回りに十五の羅漢石を配する。十五?十六ではないのかと思われるだろう。それは庭を見ている自身であるという。
 ”余の花は みな末寺なり 妙蓮寺”  宗祇の歌で有名な妙蓮寺椿は今も毎年大きな花を咲かせる。

 〒602-8418京都府京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875  
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2015年05月24日

妙覚寺の紅葉


 京都市の案内によると「妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで妙顕寺、立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている」。
 開山は日像聖人。1378年に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地(四条大宮)に創建した。
 写真の大門は豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを移築したと伝えられる。 本瓦葺、切妻造の薬医門で、特色として左右にくぐり戸を配し、長い袖塀をもつ。
 大門から本堂までは長い石畳の道が伸びている。途中に向日葵の花が咲いていた。
  本能寺の変のときは、信長の嫡男信忠の宿所(二条衣棚に移っていた)となり、明智光秀に襲われて炎上している。
 この後、秀吉によって、現在の地に移された。
 信長の岳父(舅)・斉藤道三は若い頃この寺で修行していたということもあり、信長も度々ここを京都の宿所とした。
 信長はなぜか京都には城もしくは館を建てなかった。これが後に災いすることになる。
 境内の墓地には狩野元信、永徳の墓もある。
 この辺りは日蓮宗の大寺、妙顕寺、本法寺、妙蓮寺があり、宝鏡寺、報恩寺など寺が多い。また、小川通りを下って行けば、縦の目が細い千本格子の京都の町屋も見られる。 そんな事もあって、私はこの辺りを散策するのが好きだ。
 本法寺や報恩寺の山門の前には石橋がある。だが、今は名残りであり、小川は埋め立てられてない。 
 その昔、この小川を挟んで、応仁の乱が繰り広げられた。

 〒602-0007京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135  
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2015年05月24日

阿弥陀寺


 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来。1532年~1554年、清玉上人の開創になり、当初は現在の今出川大宮東に八町四方の境内と塔頭11ヶ寺を構えていた。
 当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、松永久秀によって焼かれた東大寺大仏殿の勧進職を命じると共に、当時を勅願所とされた。この時、織田信長は「分国中人別、毎月一銭を充てよ」という賦課を命じて、清玉の勧進を支えた。
 本能寺の変を知るや、清玉は弟子を伴って直ちに現場へ急行し、焼け跡から分別のつかないほど散在していた骨灰をかき集めて、阿弥陀寺に持ち帰り密葬に付した。
 本堂には信長、信忠親子の木像が安置され、墓地には信長、信忠及び家臣の墓がある。
 後にこの事を知った秀吉は、阿弥陀寺にて葬儀を営もうとしたが、清玉はこれを辞退した。 清玉には阿弥陀寺は世俗や権力の介入を拒み、そこから超越している「無縁所」であるという誇りもあったが、秀吉が信長の遺児をないがしろにして、権力を握ろうとする態度に不満であったとも云われる。
 阿弥陀寺は寺町通りに面している。同じ通りに北から天寧寺、阿弥陀寺、十念寺、仏陀寺などいくつもの寺が軒(山門)を並べている。少し下れば紫式部ゆかりの廬山寺もある。 御所を抜けてこの寺町通りを上がる散策の道は春の私の楽しみの一つだ。特に仏陀寺と天寧寺の庭には四季折々の花が目を楽しませてくれる。

 〒602-0802 京都府京都市上京区鶴山町14  
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