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2015年05月17日

神護寺の紅葉


 809年から14年間、空海が住持として活躍した。薬師如来立像と五大虚空蔵菩薩像は、貞観時代の密教彫刻の傑作と云われる。
 紅葉の名所であり、近くには西明寺、高山寺もある。 11月中旬以降下旬までが見頃だが、シーズン中は駐車場も満車になるので、バスで行くか、少し朝早く行けば駐車もできる。
 駐車場から神護寺までは紅葉した参道を20分くらい登る。紅葉は誠に美しい。東福寺や永観堂もいいが、やはり高尾の紅葉は格別である。 写真は大師堂(弘法大師住房跡)。空海は長安(中国の都)から、持ち帰った密教の教えを、ここから弘めた。
 最澄と空海が共に活躍の場としたところでもある。ここで最澄は空海から密教の勧請を受けた。
 面授(人から人へ直接伝える)ではなく、空海の持ち帰った密教の経典を借り受けて、書物によって密教を理解しようとした最澄に、天才空海は冷ややかであった。
 木々の緑におおわれて、楓とその色を競うように建っているのは和気公霊廟。その昔、ここは高尾山寺と称する和気氏の私寺であった。
 ここへ和気氏が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を招いて彼らの活躍の場とした。
 空海はここで十四年間住持し、後に東寺(官寺)を嵯峨天皇から与えられる。
 その後、官寺では思うようにならなかったのか、私寺として高野山を開く。そこはかって空海が訪れた長安の都を彷彿とさせた。
  地蔵院の庭からは渓谷、錦雲渓が一望できる。 ここから素焼きの皿を投げる 「かわらけ投げ」 が有名である。  眼下には錦織なす清滝川がゆるやかに流れているのが見える。  地蔵院の近くの茶店の脇には白い山茶花が咲いていた。
 残念ながら、ここでは書の達人として名高い天才空海のその書を見ることは叶わない。

 〒616-8292 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5  
タグ :洛西


Posted by koyuki at 17:31Comments(0)親鸞を訪ねて

2014年11月02日

法界寺

 法界寺は、醍醐寺の南方、京都市伏見区日野にある。日野は、親鸞の生誕地として知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野氏の領地であった。日野氏は藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄であったという。
 平安時代後期の1051年、もと文章博士(モンジョウハカセ)で後に出家した日野資業(スケナリ)が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野家に代々伝わる伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したと云われる。
 浄土真宗の開祖である親鸞は、1173年に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。
 阿弥陀堂に入ると四本柱で仕切られた内陣に須弥壇が組まれ、阿弥陀は定印を結んで蓮華座に座っておられた。親鸞も幼い頃見たであろう同じ阿弥陀が今も残されている。穏やかな表情で瞼をなかば閉じて、こちらを向いておられた。
 親鸞は八歳にして両親を失い、九歳で剃髪し仏門に入る。幼くして無常の何たるかを知っていたろうか。やがて叡山に入り、修行を積むのであるが、どうしても悟りの境地は得られず、山を下りて法然の門下となる。その後、親鸞のまとめた「教行信証」は宗教というよりは、ほとんど哲学であり、大衆をひきつけるものではなかった。 それを宗教(教義)にし、教団を創ったのは蓮如だった。
 「歎異抄」は云う、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、自分も含めた悪人(凡人)をこそ、弥陀は救ってくださると。  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 13:19Comments(0)親鸞を訪ねて

2014年11月02日

月輪寺

 愛宕山の山腹にある。境内の「時雨桜」は親鸞が流罪になる時に植えたもので、5月頃になると晴天でも葉から雫を落とす。
 鎌倉山と号する天台宗の寺で、法然上人二十五霊場の第十八番目の札所である。
 寺伝によれば、781年空海の師と伝えられる慶俊僧都を中興の祖とする。寺名は地中より掘り出された宝鏡の背面に刻まれた「人天満月輪」の銘によっている。
 平安時代の末期には、九条兼実がこの地に閑居し、流罪が決まった法然上人と親鸞が兼実に別れを告げに訪れた祭に、三人それぞれ刻んだと云われる三祖像が残されている。
 京都の人の愛宕山に対する印象は、仏の山と言うよりは神の山であり、「火伏せの神」として有名で「阿多古祀符 火廼要慎」 (ヒノヨウジン) と書かれた護符は、家の台所や飲食店などの厨房に張られているのをよく見かける。
 月輪寺の石垣の上から遠く京都の町を眺める事ができる。
 寺の寺号を鎌倉山と呼ぶのは、兼実が鎌倉幕府によって摂政・関白の地位に就かされたからだろうか。
 私は親鸞の足跡を訪ねて、ここまで登ってみたのだが、京都の東北の比叡山への雲母坂といい、相対する月輪寺への参道といい、いい汗をかかせて頂いた。この後、ここまで来たのだからと思い、愛宕神社(てっぺん)まで登った。

 〒616-0000京都府京都市右京区嵯峨清滝月ノ輪町  
タグ :洛西


Posted by koyuki at 13:15Comments(0)親鸞を訪ねて

2014年11月02日

きらら坂にて

 叡山電車を修学院前で降りて、山手の方へ向かう。徐々につま先上がりになっていく坂を曼殊院まで登る。 今日は曼殊院へは寄らずに、その前で左へ折れて音羽川まで行き、きらら坂から比叡山を目指す。
 きらら坂の入り口(登山口)に 「親鸞聖人御旧蹟 きらら坂」と書かれた石碑が建てられている。 親鸞は比叡山にある無動寺大乗院(修行の地)から六角堂まで百ヶ日間参篭を繰り返した。 そのとき通ったのがきらら坂であったと云われる。 夜のきらら坂を下って、六角堂まで修行僧の足なら1時間半くらいだろうか。
 坂はいきなり急勾配になっている。大雨の時などは、この狭い道は川となって流れるのだろう。 何度も挫けそうになりながら、息を切らして登る。もうだめかと思ったところで、見晴らしのいい場所に出て救われた思いがする。宝ヶ池の辺りが見える。この登山道は、雲母を採取した山を登るので雲母(きらら)坂と呼ばれている。今は人一人が通るのがやっとの狭い道だが、昔はもっと広かったのではないか。少なくとももっと人の行き来があっただろうから、道らしい道であったと思う。ここを山法師が日吉神社の神輿を担いで通ったと云うのだから。 しかし、今は尾根筋へ出るまでの坂は殆ど廃道に近く荒れている。 小休止して、また登り始める。
 なんとか八瀬からのケーブルの終点まで辿り着いた。1時間半近くはかかっている。 シャツは汗でびっしょり濡れていたので、着替えることにした。眼下には京都の町並みが広がっていた。二条城、御所、相国寺、そして鴨川が見える。 親鸞が見た風景はどのようであったろうかと想像してみた。 また、親鸞が六角堂から大乗院へ帰る早朝の風景はどのようであったろうかと・・・。
 私は何故、親鸞の足跡を訪ねてみようと思ったか、今はまだはっきりとは自分でも説明ができないが、ただ同じように自然に触れてみて、鈍くなった感受性を少しは研ぎ澄ませたかったのではないか。汚れきったこの心身を少しは清めたかったのではないか。
 阿弥陀堂の阿弥陀仏坐像の前で手を合わせる。
 阿弥陀堂脇に秋明菊が咲いていた。
 石段を降りて根本中堂まで下る。 ちょうど昼時であったので、そば屋で山菜そばを食べた。ビールが欲しかったが、我慢した。 この後、今日は椿堂から釈迦堂あたりまで行ってみることにした。
 釈迦堂へ降りる手前に常行堂と法華堂があるが、修行中の僧が常行堂へ入って行くのとすれ違う。
 帰りも常行堂と法華堂の間を通ったが、かすかに修行僧の発する声が洩れてくるのが聞こえた。暗い堂の中を廻り、正面で立ち止まっては名号を唱えるのであろう。九十日間不断で続けられる常行三昧は生死の境を彷徨うに等しい苦行と聞いたが、本当に仏を見ることは叶うのであろうか。私などの凡人には計り知れないことである。
 椿堂の横を通りかかったとき、行きではなぜか見落としていた 「親鸞聖人ご修行の地」と書かれた石碑に気づく。親鸞は九歳で慈円に預けられ、ほどなく比叡山に登り、修行の道に入る。これより二十年間の長きに渡って修行を続けたが、比叡山では一介の堂僧(修行僧)でしかなかった。
 その親鸞が六角堂への百ヶ日間参篭を機に転生するのである。また、この百ヶ日間の間に法然とも出会い、吉水草庵へ通学し、後に法然より親鸞の名を授かる。
帰りは膝が砕けそうになりながらも1時間弱で降りた。急な坂は降りるのも容易ではなかった。
 曼殊院の前の茶屋にて足を伸ばす。足が痛い。コーヒーを飲みながら、達成できたことに安堵する。
 途中何度も挫けそうになったが、終わってみると無性に「日を改めてもう一度登ってみよう」という気になっていた。


  

Posted by koyuki at 13:12Comments(0)親鸞を訪ねて

2014年11月02日

東山にて

 家の近くのバス停には80番と32番の市バスが止まる。80番は祇園行で、32番は銀閣寺行である。 今日は秋の雨の中を祇園までバスに乗り、八坂さんから円山公園を抜けて東大谷廟の石畳の参道を上り、吉水 まで行ってみることにした。

 秋の雨の野分になれば真葛原
    恨むる風ぞいとど烈しき  - 慈円

 この歌のように今日は台風も来ているらしい。なにもそんな時を選んで登らなくてもと思うが、思い立つと居ても立ってもいられなくなる性分である。
 唐門をくぐって、親鸞廟に少し立ち寄ってから唐門脇の小門を出て坂を尚も登る。安養寺の前を通り過ぎて、鐘楼の前に出た。
 安養寺は吉水草庵といって、親鸞が法然の教えを受けた道場があったところである。
 鐘楼の裏へ回ると 「ほーたるのいわや約一丁」 と書かれた標柱が立っている。雨の中、足場はかなりぬかるんでいたが、ここまで来たのだからと法垂窟まで登ることに決めた。 途中、道端に雨に打たれて尚、白く健気に咲く藪茗荷を見つけて、シャッターを押した。
 法垂窟の前には小さな東屋があったので、少し休ませてもらった。法垂窟も写真におさめたのだが、フラッシュをたいても暗くてうまく写っていなかった。雨も烈しくなっていたので雨粒がたくさんノイズのように写っていた。
 法垂窟の石碑を前に「南無阿弥陀仏」と念じてみた。
 鐘楼まで戻って、その前の石段を下ると広い知恩院さんの境内に出た。 この雨の中を観光客がガイドに案内されて通っていくのに出会う。 そのまままっすぐ歩いて御影堂に辿り着く。ズボンの裾はぐっしょりと雨にぬれている。靴を脱いで広縁へ上がる。振り返って今来た道を探してみる。雨に煙っている樹林のその奥。吉水へ親鸞が法然の教えを聞きにかよった当時は、今立っている知恩院の境内も真葛原であったらしい。あの杉の大木は若木だった頃、親鸞を見ているのだろうか。後ろでは母親達が礼拝する傍らで子供達の声がしていた。
 三門へは下りずに、黒門の方から青蓮院へ抜ける道をとる。 黒門へつながる石段を下りていると、この雨の中を庭師がカッパを着て植木の刈り込みをしていた。
 黒門をくぐり右へ折れると青蓮院はすぐそこである。青蓮院の前のクスノキをバックに 「親鸞聖人得度聖地」の石柱を写真におさめる。今日は青蓮院へは寄らずに神宮通りを隔てた向かい側の喫茶店へ入った。
 少し冷えた体を温めるべくコーヒーを注文する。ガラス越しにクスノキを見上げながらコーヒーをすする。
 親鸞は九つの歳で慈円のもとへ預けられ、剃髪して出家する。親鸞はこの歳既に両親をほぼ同時に亡くしている。小さな体で無常を受止めていた。ほどなく比叡山へ上がり、修行の道へ入るのである。
 少し休んで後、喫茶店を出て雨の中をまた歩き出した。
 青蓮院の前の道をまっすぐ行くと平安神宮に突き当たる。途中、疎水を渡って美術館の前を通り過ぎ、平安神宮の前まで来たところで、お腹が空いたので昼食にすることにした。 このあたりは通いなれた場所である。独身の頃、一時期だけ御陵(ミササギ)に住んでいたことがあった。 その頃、会社帰りによく立ち寄ったジャズ喫茶がこの近くにある。結構知られた店だったが、ここにはじめて連れてきてもらったのは、社の先輩でジャズ好きのY氏だった。Y氏は入社したときから何かとお世話になった方で、一度Y氏の郷里である長崎へも遊びに行ったことがあった。ジャズの手ほどきもY氏から受けた。
  昼食はジャズ喫茶の向かいの中華料理店で定食を食べることにした。 けっこう歩いたので、お腹が空いていた。 ビールも注文しようかと迷ったが、やめておいた。
 昼食を済ませた後、ジャズ喫茶へも久しぶりに寄ってみることにした。
 店に入るとカウント・べーシーのピアノが聞こえてきた。入り口近くの席に座った。テーブルの上の花瓶には白いトルコキキョウが生けられていた。
 あの頃と店内はほとんど変わっていなかた。
 こんなことがあった。いつものように会社の帰りにこの店に寄った。その日は残業で遅くなったのだが、無性にジャズが聞きたくて、ドアを開けるとカウンターに座っていた男がギロっとこちらを睨んだ。その男の革ジャンの背中には大きな鷲の刺繍がしてあった。その男は向き直ってマスターと話の続きをはじめた。渡辺貞夫だった。
 1時間程ジャズを聴いた後、店を出るとまだ雨は降っていた。滅入るような気分でいると、楽しげにわざと水溜りを踏んで歩く学校帰りの兄弟に出会った。ミッキーマウスのお揃いの傘をさして歩く二人を見ていると我が子と重なって、思わずシャッターを切った。  

Posted by koyuki at 13:00Comments(0)親鸞を訪ねて