2013年07月28日
相国寺ショウコクジ
烏丸通と今出川通の交差する東南が京都御所、西北が室町時代足利義満が造営した花の御所跡、東北には同志社大学の校舎が建ち並んでいる。
義満は権力にものをいわせて、京中の貴族や武士の屋敷から名花、名木を移植させた。このため、花の御所と呼ばれるようになった。 が、その面影は全く残っていない。「天皇になろうとした将軍」の御所が今に残っていないのは残念である。
武家出身の征夷大将軍で左大臣の地位まで登ったのは義満以前には誰もいなかった。左大臣以上の大臣を相国と呼んだ。相国寺は義満の権力の象徴として建立された。 相国は、ソウコクではなくショウコクと読む。ソウは相対する意があるが、ショウは一段位が上という意がある。 ソウコクと読んではいけない。
相国寺には当初は、「七重大塔」とも呼ばれた日本史上最も高い塔があったらしい。 つまり御所(天皇)を見おろせるような巨大な建築物をたてたのである。残念ながらこれも今には残っていない。
将軍も三代目ともなれば、生まれながらの将軍であり、鎌倉の実朝、室町の義満、徳川の家光、いずれの三代将軍とも秀でた才覚の持ち主であった。
今出川通を東へ250m、同志社の正門を入って北へ200m程行くと相国寺の総門がある。 方丈の庭は春と秋に特別拝観しているが、相国寺の塔頭は皆、予約制でしか拝観できない。
残念ながら、ここも他の多くの寺院と同じく、何度かの火災にあっている。 応仁の乱では相国寺合戦の場となり、壮大な七堂伽藍は焼失した。
法堂には、義満の木像がある。これを見ても分るが、武士と言うよりは公家である。八の字の眉毛と垂れ目のふっくらとした頬、憎めない顔をしている。
相国寺境内にも春は桜が咲く。近くの御所の近衛邸跡に咲くのは枝垂桜であるが、ここ相国寺では山桜が一足先に開花する。
奥に美術館もあり、若冲と相国寺の関係は深く、最近は「若冲」の絵をよく見に来るところでもある。
〒602-0898京都府京都市上京区今出川通烏丸東入上る相国寺門前町701
義満は権力にものをいわせて、京中の貴族や武士の屋敷から名花、名木を移植させた。このため、花の御所と呼ばれるようになった。 が、その面影は全く残っていない。「天皇になろうとした将軍」の御所が今に残っていないのは残念である。
武家出身の征夷大将軍で左大臣の地位まで登ったのは義満以前には誰もいなかった。左大臣以上の大臣を相国と呼んだ。相国寺は義満の権力の象徴として建立された。 相国は、ソウコクではなくショウコクと読む。ソウは相対する意があるが、ショウは一段位が上という意がある。 ソウコクと読んではいけない。
相国寺には当初は、「七重大塔」とも呼ばれた日本史上最も高い塔があったらしい。 つまり御所(天皇)を見おろせるような巨大な建築物をたてたのである。残念ながらこれも今には残っていない。
将軍も三代目ともなれば、生まれながらの将軍であり、鎌倉の実朝、室町の義満、徳川の家光、いずれの三代将軍とも秀でた才覚の持ち主であった。
今出川通を東へ250m、同志社の正門を入って北へ200m程行くと相国寺の総門がある。 方丈の庭は春と秋に特別拝観しているが、相国寺の塔頭は皆、予約制でしか拝観できない。
残念ながら、ここも他の多くの寺院と同じく、何度かの火災にあっている。 応仁の乱では相国寺合戦の場となり、壮大な七堂伽藍は焼失した。
法堂には、義満の木像がある。これを見ても分るが、武士と言うよりは公家である。八の字の眉毛と垂れ目のふっくらとした頬、憎めない顔をしている。
相国寺境内にも春は桜が咲く。近くの御所の近衛邸跡に咲くのは枝垂桜であるが、ここ相国寺では山桜が一足先に開花する。
奥に美術館もあり、若冲と相国寺の関係は深く、最近は「若冲」の絵をよく見に来るところでもある。
〒602-0898京都府京都市上京区今出川通烏丸東入上る相国寺門前町701
タグ :洛中
2013年07月27日
本厚木の本丸亭
線路沿いに厚木側へ少し歩いたところに麺や食堂ブラジルというラーメン店がある。ここのラーメンも美味しいが、今回は、そこから少し離れた所(さらに南へ)にある塩ラーメン専門店「本丸亭」へ行ってみた。
注文したのは今月の限定ラーメン「豚タン塩ラーメン」(写真)だ。 トッピングされた豚タンは特製醤油で煮込んだ後、炙っているそうだ。焦がしネギもいっしょにのっかっている。麺は中太麺。スープは塩味だ。美味しかった。
注文したのは今月の限定ラーメン「豚タン塩ラーメン」(写真)だ。 トッピングされた豚タンは特製醤油で煮込んだ後、炙っているそうだ。焦がしネギもいっしょにのっかっている。麺は中太麺。スープは塩味だ。美味しかった。
2013年07月21日
西寺跡
西寺は、羅城門を挟んで東寺と共に建てられた官寺だった。伽藍の配置は東寺とほぼ同じ。東寺が空海によって密教の根本道場となった後も、西寺は鎮護国家のための官寺であり続けた。
東寺は今でも健在だが、西寺の方は発掘調査の時にできた土盛りと礎石以外は残っていない。
西寺が再建されなかった理由は、いくつかある。まず、このあたりは、平安京創建時から湿地帯であったこと。
また、羅城門の倒壊、大内裏焼失、そして藤原氏の摂関政治、白河天皇による院政へと時代は急激に変化し、法勝寺が洛東に建てられたことで、都の中心はかってメインストリートであった朱雀大路からは、かなり東にかたよってしまったこと。
空海のようなスターが西寺からは出なかったこともある。
度重なる火災により、最後に残された五重塔も焼失し、それ以降、再建されることはなかった。
今では、土盛りの回りは、民家やマンションが建てられ、九条通からは少し入ったところに位置するので、訪ねてみる気がなければ見落としてしまう。
西寺の名残としては、もう一つ、かって西寺に祀られていたという地蔵菩薩像が、東寺の宝物館に安置されている。
西寺跡の土盛りの横に今は児童公園があり、子供達が遊んでいた。昔々、ここには西寺という大きなお寺が建っていたんだよと言っても信じられないかもしれない。京都には何々跡という石柱が思いもかけない道端にあったりするが、ここはまだ土盛りがあるだけでもましかもしれない。
土盛りの上、大きな木の下には、昔日を思わせる心地よい風が吹いていた。
西寺跡
東寺は今でも健在だが、西寺の方は発掘調査の時にできた土盛りと礎石以外は残っていない。
西寺が再建されなかった理由は、いくつかある。まず、このあたりは、平安京創建時から湿地帯であったこと。
また、羅城門の倒壊、大内裏焼失、そして藤原氏の摂関政治、白河天皇による院政へと時代は急激に変化し、法勝寺が洛東に建てられたことで、都の中心はかってメインストリートであった朱雀大路からは、かなり東にかたよってしまったこと。
空海のようなスターが西寺からは出なかったこともある。
度重なる火災により、最後に残された五重塔も焼失し、それ以降、再建されることはなかった。
今では、土盛りの回りは、民家やマンションが建てられ、九条通からは少し入ったところに位置するので、訪ねてみる気がなければ見落としてしまう。
西寺の名残としては、もう一つ、かって西寺に祀られていたという地蔵菩薩像が、東寺の宝物館に安置されている。
西寺跡の土盛りの横に今は児童公園があり、子供達が遊んでいた。昔々、ここには西寺という大きなお寺が建っていたんだよと言っても信じられないかもしれない。京都には何々跡という石柱が思いもかけない道端にあったりするが、ここはまだ土盛りがあるだけでもましかもしれない。
土盛りの上、大きな木の下には、昔日を思わせる心地よい風が吹いていた。
西寺跡
タグ :洛南洛外
2013年07月20日
川越の「讃」にて
久しぶりで川越(埼玉)へ行くことがあり、駅前の「讃」で讃岐うどんを食べて来ました。 ここは改装前は「讃岐路」という名前の店でしたが、改装後は「讃」に変えたそうです。(同じビルの3Fだけど場所も変わった) 創作うどんとして、カルボナーラやカレーうどんもやっているようでしたが、結局注文したのは、鴨汁つけ麺?(写真)でした。 相変わらずの男麺でした。
この後、待ち合わせまで時間があったので、商店街を歩いてみましたが、途中で「三ツ矢堂製麺」というつけ麺の店を見つけました。次回は、ここで「つけ麺」でも食べてみようかと。 ただ、確か早稲田通りと明治通りの交差点の角にもあったので、そっちが先かな・・・。
商店街にはあの丸亀製麺所もあった。夢うの大将の弟子がロサンジェルスに出した「丸亀・・」と名前でもめていたが、なんとか丸く治まったようだ。
この後、待ち合わせまで時間があったので、商店街を歩いてみましたが、途中で「三ツ矢堂製麺」というつけ麺の店を見つけました。次回は、ここで「つけ麺」でも食べてみようかと。 ただ、確か早稲田通りと明治通りの交差点の角にもあったので、そっちが先かな・・・。
商店街にはあの丸亀製麺所もあった。夢うの大将の弟子がロサンジェルスに出した「丸亀・・」と名前でもめていたが、なんとか丸く治まったようだ。
2013年07月14日
東本願寺
浄土真宗大谷派本山。
浄土真宗の開祖は親鸞(シンラン)である。おそらく宗教に詳しくなくても親鸞は知っている(名前は聞いた事がある)人は多いと思う。
親鸞の教えは簡単に言うと阿弥陀如来を唯一の救い主として一向(ひたすら)に極楽浄土に生まれ変わり(往生して)仏となることを願う。そのために念仏を唱え、阿弥陀のはからいを信じる「信心為本」というものである。
「南無阿弥陀仏・・・」はあまりに身近すぎて、子供の頃は、それが仏教に通じているとは知らなかった。
しかし、一時は忘れられていた真宗(本願寺)を再興したのは蓮如の功績が大きい。興すものと布教するものが宗教には必要なのである。 境内には鳩が多い。 駅前の京都タワーが見える。
私が祖母の家で暮らしていた頃(まだ結婚する前の頃で、祖母の家は油の小路にあった)、本屋に寄った後、境内のベンチに腰掛けてよく読書をさせてもらった。
その頃は辻潤の本を古本屋で見つけてきては、ここで読んでいた。 そうして詩を書いては投稿していた。
そんな事もあって、ここは今更写真を撮るような所ではなく、私にとっては亡くなった祖母との生活を思い出させる場所である。 観光客も多いのだが、境内は広いので混雑しているというほどの事はない。
奈良の大仏よりも建坪が大きい大師堂は明治28年の落成。
親鸞の事をもう少し話そう。今でこそ日本の僧侶は妻をめとっているが、親鸞がはじめて仏教二千年の伝統を破って大っぴらに妻をめとり子を成した。仏教でさえ日本人は日本風に造り替えてしまったのである。
親鸞もやはり叡山の出である。日蓮、道元もまた同じく最澄の興した叡山(大学)で仏教の基礎を学んだ。 その後、山を下り六角堂にて百日参篭し夢告を受ける。 そして法然の門弟となり、親鸞の名を授かる。親鸞三十三歳のときである。
その後、一旦は京を追われ非僧非俗の身となり「教行信証」の述作に入る。
思想家親鸞の書いた「教行信証」は難解である。親鸞の思想を知る頼りと成るのは門弟の唯円による「歎異抄」であろう。
五木寛之の「他力」を最近読んだ。若い頃、好んで彼の小説を読んでいた時期があるのですが、彼が五十代の頃、休筆して龍谷大学で仏教を学んだ事は知らなかった。中年になった私が同じ様に親鸞に興味を持ち他力に興味を覚えたのは不思議だ。
大師堂門は京都三大門のひとつ。
ここを庭とは呼べないが、私はこの眺めが好きである。
本願寺は元は一つであったが、家康の政策により、江戸時代に二つに分裂した、というよりもう一つ作られた。それが、ここ東本願寺である。 もう一方の本願寺は西本願寺である。
〒600-8505 京都府京都市下京区烏丸通七条上る常葉町754
浄土真宗の開祖は親鸞(シンラン)である。おそらく宗教に詳しくなくても親鸞は知っている(名前は聞いた事がある)人は多いと思う。
親鸞の教えは簡単に言うと阿弥陀如来を唯一の救い主として一向(ひたすら)に極楽浄土に生まれ変わり(往生して)仏となることを願う。そのために念仏を唱え、阿弥陀のはからいを信じる「信心為本」というものである。
「南無阿弥陀仏・・・」はあまりに身近すぎて、子供の頃は、それが仏教に通じているとは知らなかった。
しかし、一時は忘れられていた真宗(本願寺)を再興したのは蓮如の功績が大きい。興すものと布教するものが宗教には必要なのである。 境内には鳩が多い。 駅前の京都タワーが見える。
私が祖母の家で暮らしていた頃(まだ結婚する前の頃で、祖母の家は油の小路にあった)、本屋に寄った後、境内のベンチに腰掛けてよく読書をさせてもらった。
その頃は辻潤の本を古本屋で見つけてきては、ここで読んでいた。 そうして詩を書いては投稿していた。
そんな事もあって、ここは今更写真を撮るような所ではなく、私にとっては亡くなった祖母との生活を思い出させる場所である。 観光客も多いのだが、境内は広いので混雑しているというほどの事はない。
奈良の大仏よりも建坪が大きい大師堂は明治28年の落成。
親鸞の事をもう少し話そう。今でこそ日本の僧侶は妻をめとっているが、親鸞がはじめて仏教二千年の伝統を破って大っぴらに妻をめとり子を成した。仏教でさえ日本人は日本風に造り替えてしまったのである。
親鸞もやはり叡山の出である。日蓮、道元もまた同じく最澄の興した叡山(大学)で仏教の基礎を学んだ。 その後、山を下り六角堂にて百日参篭し夢告を受ける。 そして法然の門弟となり、親鸞の名を授かる。親鸞三十三歳のときである。
その後、一旦は京を追われ非僧非俗の身となり「教行信証」の述作に入る。
思想家親鸞の書いた「教行信証」は難解である。親鸞の思想を知る頼りと成るのは門弟の唯円による「歎異抄」であろう。
五木寛之の「他力」を最近読んだ。若い頃、好んで彼の小説を読んでいた時期があるのですが、彼が五十代の頃、休筆して龍谷大学で仏教を学んだ事は知らなかった。中年になった私が同じ様に親鸞に興味を持ち他力に興味を覚えたのは不思議だ。
大師堂門は京都三大門のひとつ。
ここを庭とは呼べないが、私はこの眺めが好きである。
本願寺は元は一つであったが、家康の政策により、江戸時代に二つに分裂した、というよりもう一つ作られた。それが、ここ東本願寺である。 もう一方の本願寺は西本願寺である。
〒600-8505 京都府京都市下京区烏丸通七条上る常葉町754
タグ :洛中
2013年07月13日
満来でチャーざる
新宿西口を出て、少し歩いた所に満来というラーメン店がある。 夏が近づくとここの「ざるラーメン」が食べたくなる。ここでは、ざるラーメンと呼ぶが、一般的にはつけ麺だ。 久しぶりだったので、ざるラーメンではなく、欲張ってチャーシューざるラーメンにしたのだが、ここのチャーシューは半端じゃない。つけ汁が見えないくらいにチャーシューがデン!と入っている。まず、チャーシューだけでも腹一杯になる。これに加えてざる(皿)に盛られたラーメンがこれまた凄い。女性客は「麺少な目」とか、「麺2/3」とか言って注文していた。
2013年07月07日
西本願寺
西本願寺は、宗祖親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山である。
創建時は、聖人の廟所(墓地)の地、東山にあった。その後、各地に寺基を移し、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移った。
桃山文化を代表する建造物や庭園が多く残されており、平成6年(1994)12月に、世界文化遺産に登録された。
西本願寺は、御影堂平成大修復がやっと終わった。 なんと全工程で十年という月日を要した。まず鉄骨造りの素屋根で御影堂をすっぽりと覆い、大屋根の瓦を全て外した後、梁を一回り大きいものに交換する。その後に、瓦を全面葺き替え、獅子口という屋根の(棟の)両端に用いる箱形の飾りの交換、軒先大壁全面上塗り替えといった外装だけではなく、内陣、余間上部、三の間の彩色補修、金箔押し等が行われる。
もとは西本願寺を単に「本願寺」と呼んだ。今は、京都には西本願寺と東本願寺の二つの本願寺が存在する。
これには徳川家康の陰謀がある。西本願寺には豊臣秀吉の遺構(書院、庭、能舞台等)が多く残されている。また、阿弥陀ヶ峰(東山)にある豊国廟、豊国神社本殿、西本願寺までは東から西へ一直線に並んでいる。これは一説によると、秀吉が死後に西本願寺に祀られた阿弥陀如来の元に赴き、同時に豊国大明神として東の阿弥陀ヶ峰において再生する仕掛けであるという。これを阻止するために、家康は天下を取って豊臣家を滅ぼした後、豊国神社を破壊し、先ほどの直線上に東本願寺を創建させたというのだ。勿論、本願寺という巨大勢力を分裂することも目的であった。
当家のお寺さんは、西本願寺派の塔頭なのだが、ついこの間、父の七回忌法要をお寺さんで行ったところだ。この時も西本願寺に立ち寄った。 今は東本願寺が大修復中だ。
〒600-8358京都府京都市下京区堀川花屋町下
創建時は、聖人の廟所(墓地)の地、東山にあった。その後、各地に寺基を移し、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移った。
桃山文化を代表する建造物や庭園が多く残されており、平成6年(1994)12月に、世界文化遺産に登録された。
西本願寺は、御影堂平成大修復がやっと終わった。 なんと全工程で十年という月日を要した。まず鉄骨造りの素屋根で御影堂をすっぽりと覆い、大屋根の瓦を全て外した後、梁を一回り大きいものに交換する。その後に、瓦を全面葺き替え、獅子口という屋根の(棟の)両端に用いる箱形の飾りの交換、軒先大壁全面上塗り替えといった外装だけではなく、内陣、余間上部、三の間の彩色補修、金箔押し等が行われる。
もとは西本願寺を単に「本願寺」と呼んだ。今は、京都には西本願寺と東本願寺の二つの本願寺が存在する。
これには徳川家康の陰謀がある。西本願寺には豊臣秀吉の遺構(書院、庭、能舞台等)が多く残されている。また、阿弥陀ヶ峰(東山)にある豊国廟、豊国神社本殿、西本願寺までは東から西へ一直線に並んでいる。これは一説によると、秀吉が死後に西本願寺に祀られた阿弥陀如来の元に赴き、同時に豊国大明神として東の阿弥陀ヶ峰において再生する仕掛けであるという。これを阻止するために、家康は天下を取って豊臣家を滅ぼした後、豊国神社を破壊し、先ほどの直線上に東本願寺を創建させたというのだ。勿論、本願寺という巨大勢力を分裂することも目的であった。
当家のお寺さんは、西本願寺派の塔頭なのだが、ついこの間、父の七回忌法要をお寺さんで行ったところだ。この時も西本願寺に立ち寄った。 今は東本願寺が大修復中だ。
〒600-8358京都府京都市下京区堀川花屋町下
タグ :洛中