さぽろぐ

  旅行・温泉・観光  |  その他の都道府県・海外

新規登録ログインヘルプ


インフォメーション


QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 1人
プロフィール
koyuki
koyuki

スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2013年10月27日

総見院

 総見院は大徳寺の二十二塔頭の一つである。秀吉は信長の葬儀を大徳寺で執り行い、菩提寺として総見院を建立した。
 安土城の城内にも同じ名前の寺(総見寺)があったが、その関係はわからない。信長はその晩年、自らを天皇に代わって神体・神仏とならんとした。信長の聖なる誕生日には毎月、総見寺に参詣するよう布告した。
 戦において大将が討死ねば全軍は壊滅する。だから信長は越前での戦いのときも、長島での一向宗徒の逆襲の際もなりふりかまわず逃げ帰ったのであった。しかし、その信長がなぜ本能寺では「是非に及ばず」(信長の口癖であった)として、女たちを落ち延びさせた後、火の中に身を投じたのか。
 大徳寺での葬儀の際、信長の遺体は存在しなかった。本能寺で灰となり、遺体は見つかっていなかったからだ。かわりに今も木像が安置されている。
 創建当時の建造物で今も残っているのは正門と土塀、鐘楼のみである。後は明治初年の廃仏毀釈により灰と化した。今の伽藍は大正年間に再興されたものである。
 信長は父親が急逝し、織田家を継いでから戦に継ぐ戦の日々であった。天下を統一する一歩手前で、無二の腹心であった光秀に裏切られるまで、走り続けた。
 一族の墓を見た後、何か信長を偲ぶものはないかと胡蝶侘助の前で足を止めた。しかし、樹齢四百年の椿も秀吉が愛したと伝えられるものである。木像は公開されていない。
 本能寺の変のとき、信長は四十九歳。彼が好んだ敦盛の一節が浮かんで消えた。
  「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻・・・」  
タグ :洛北


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園