2013年12月29日
南禅寺の山門
1291年に亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門(大明国師)規庵祖円(南院国師)によって創建された。 本尊には釈迦如来が祀られている。大方丈は京都御所の清涼殿を移築したものであり、小方丈は桃山城の小書院を移築したものである。
禅寺を中国にならって格づけしたのは足利尊氏と直義で、鎌倉と京都の主要な禅寺を選んで序列をつけた。この後、三代将軍の義満が鎌倉と京都に分けて、それぞれに五山を選び、その上に南禅寺をおいた。
京都の五山の序列は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の順となり、この上の位に南禅寺があった。
この三門の上へは、拝観料(500円)を払えば登ることができる。 あの石川五右衛門が、この上から京を眺めて「絶景かな、絶景かな」と言ったか言わなかったか。 写真は東山の方角を裏側から見たところです。 表側からは京都の街並みが眺められます。
しかし、盛時は62院の塔頭があったそうだが、緑に囲まれた敷地は広すぎるぐらいに広い。 今では12院になってしまったとは言え、その一つ一つを拝観して歩くだけでも1日かかるだろう。
〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86
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2013年12月28日
中味すば
琉球大学の東口に近くにある「ちゅらすば」で食べた「中味すば」だ。 中味とは豚の内蔵のことだが、沖縄では中味のお吸い物があり、これが好きだ。 沖縄へ来ると島らっきょとこの中味汁(または中味すば)が、なぜか食べたくなる。 今回は、いつも一度は行く浦添の高江洲へは食べに行けなかった。
2013年12月23日
清水の舞台
ユネスコの世界遺産リストにも登録されており、京都でも観光客の多いところである。778年に僧延鎮が音羽の滝上に観音を祀ったことに始まり、798年には坂上田村麻呂が仏殿を建立して桓武天皇の勅願寺となったと伝えられる。伽藍の中心となる本堂は1633年に再建された建造物で、「清水の舞台」として知られる。
松風や音羽の滝の清水を
むすぶ心はすずしかるらん
「この世の栄華は夢のようなものです。この尊氏に仏道への志を与え、来世をうまく過ごせるようにして下さい。出家したいと思います。この世の栄華に代えて来世の幸福を頂きたい。この世の栄華は弟の直義に譲ります。直義をお守り下さい」
足利尊氏が南北朝の動乱にて後醍醐を倒し、勝利した後、清水寺に納めた願文である。
源頼朝や徳川家康のように非情の人になれなかった「やさしさ」がこの後の乱世を招くのであるが、私が京都の寺院を回ってみようと思ったのは、そんな彼に興味を持ったからに他ならない。
清水寺が建立された目的は平安京を守護する事であった。桓武天皇は京(山城国)へ都を移すにあたって、いくつかの怨霊封じのためのシステムを導入している。その一つが京の鬼門(北東)に建立された比叡山延暦寺であり、また東西南北に建立させた大将軍社であった。そしてこの清水寺もまた、その一つである。
〒605-0862 京都府京都市東山区清水1丁目294
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2013年12月08日
成就院の借景
清水寺の塔頭の一つ。ここは常には拝観できないので、あまり知られていないかもしれません。 私もある美術展(デニス・ホッパー写真展)をここでやっていたのを偶然知って出合ったのです。 それ以来、特別拝観または美術展がある毎に訪れることになりました。
とても気に入っている庭の一つです。
裏の山を借景にした奥行きのある庭です。
とても気に入っている庭の一つです。
裏の山を借景にした奥行きのある庭です。
タグ :洛東
2013年12月07日
2013年12月01日
正伝寺の借景
重要文化財の方丈は、もと聚楽第の一部で、伏見城に移設され御成御殿といわれていたものを移設。内部の襖絵は狩野山楽筆。1273年に東巌慧安(とうがんえあん)禅師の創建。
庭園は小堀遠州の作。 一石も用いず、七五三調のつつじの刈り込みを配した枯山水で、「獅子の子渡し」と称される。
比叡山の遠景を借景とした庭は、しばし時を忘れさせてくれる。
長い石段を登ってきた山の中腹にあるので、静寂の中に聞こえるのは鳥の鳴き声の他はなにもない。
〒603-8847 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
庭園は小堀遠州の作。 一石も用いず、七五三調のつつじの刈り込みを配した枯山水で、「獅子の子渡し」と称される。
比叡山の遠景を借景とした庭は、しばし時を忘れさせてくれる。
長い石段を登ってきた山の中腹にあるので、静寂の中に聞こえるのは鳥の鳴き声の他はなにもない。
〒603-8847 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
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