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2015年04月29日

高台寺


 正式には高台寿聖禅寺という。  豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北ノ政所(寧々、出家して高台院湖月尼と号す)が開創した寺である。
 関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗退した影には、北ノ政所が果たした役割は少なからずあった。 加藤清正や福島正則等を家康側に就くよう仕向けたのも彼女であったとも聞く。 この時、豊臣家は二つに割れた。大きくは尾張の武断派と近江の文治派とに。これが豊臣家の滅亡につながっていった。
 写真は開山堂。  庭は小堀遠州作。桃山時代を代表する庭園として知られる。
 寧々には子がなかった。それだからと言うわけではないだろうが、秀吉には側室が大勢いた。だが、淀殿以外には子はできなかった。 秀吉は63歳で亡くなったが、秀頼は56歳の時の子である。後10年長生きしていればとも思うが。
  室町時代からはじまった書院造の「和室」の中で、床の間というのは一種の展示空間(ギャラリー)である。 床の間に掛け軸と生け花は欠かせない。  この生け花、室町時代は立て花といって、既に足利三代将軍義満の頃から同朋衆の中に花の飾りつけの名人がいたと伝えられる。  後に僧侶の中から、それを専門とする人が出てくるのであるが、これがあの池坊のはじまりである。
 詳しくは六角堂のページを見て頂きたい。  境内奥には利休の意匠による茶席であり伏見から移建した時雨亭がある。

〒605-0825 京都府京都市東山区下河原町八坂鳥居前下る下河原町526  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:48Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

知恩院の三門


 浄土宗総本山。法然ゆかりの地であり、入寂された地ともなった。  この三門は高さ24m、桁の長さ27m、木造の門としては世界最大のスケールを誇り、我が国最大。  空・無相・無願という3つの教えを表しているそうだ。
 特別拝観の日に、三門の上に登らせていただいた。 かなり広い。中央に釈迦如来像、両脇に8体づつの十六羅漢像が置かれている。天井には龍と天女が舞っている姿が描かれている。
 釈迦如来像が向いている方角には、京都の町並みが見下ろせる。
  知恩院さんは、日本一大きな銅鐘を10数人の僧侶が体を反らせてつく除夜の鐘でも知られる。
 ここは法然入滅の地である。法然はその晩年、法難に遭い(安楽寺参照)、僧侶の免許を剥奪されて土佐の国に配流された。恩赦にて帰洛が許可された時、既に法然は老いて衰弱していた。
 光明偏照十方世界、 念仏衆生摂取不捨  (阿弥陀如来の光明はあまねく十方世界を照らし、仏を念ずる衆生をば摂取して捨てない。)  正月二十五日(現行歴三月七日)正午、この文を称えて眠るように息絶えたとされる。
 方丈庭園は東山の美しい自然と調和した庭園は大小二つの池があり、作庭作業に加わった僧・玉淵坊は、小堀遠州とも関係が深く、桂離宮の作庭にも関わりがあったという。

〒605-8686 京都府京都市東山区林下町400

  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:43Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

青蓮院の楠木

 天台宗総本山延暦寺の三門跡のひとつ。  粟田御所とも呼ばれる。 三門の脇に大きな楠木が立っている。
 後の室町六代将軍足利義教となった義円は、青蓮院の僧侶であった。四代将軍義持が亡くなった後(五代将軍義量は十九歳の若さで夭折している)、くじ引きによって選ばれた。 義教に言わせると神によって選ばれた。 
 義教は九州制圧、比叡山弾圧、鎌倉府(関東)制圧とそれまでの室町将軍ができなかった事を成し遂げた人にしては過小評価されている。
 義教は恐怖の魔王と呼ばれたが、乱世の時代にあって平和を維持するためには、絶対的権力が必要であった。
 第三世門主は慈円であり、親鸞は九歳の時に慈円について青蓮院で得度したと説明書には書かれているが、正確には慈円が青蓮院へ移ったのは天台座主となって以降であり、親鸞得度当時は隣接していた三条白川房の小院であったとみる方が正しい。
 親鸞はこの時。既に両親とは死別し、叔父に預けられていた。
 境内の北側に植髪堂があり、親鸞得度の時にそり落とした髪を、親鸞童形の像に植えたものを祀っている。
  親鸞は得度の後、直ぐに比叡山の道場へ送られ、聖教を学び始める。 親鸞が得度した年、京都は飢饉のさなかであり、殺生までともなう掠奪と放火がたえず頻発していた。  寺内には室町時代に相阿弥が作ったとされる庭園がある。
  苔の庭に突っ立った大きな楠木と対座してしばし無にならんとす。  親鸞は九歳で得度し、比叡山に登り、この後二十年に及ぶ長い月日を山で修行するのである。 しかし、九十日間「歩々声々念々」を休まずつづける常行三昧という厳しい修行でも仏を見ることができなかった。そうして山を下り、六角堂へ篭るのである。  慈円の歌に次のような歌がある。
  春ぞかし今年おろかに過ごし来て
    花におどろく白川の里
 人は処世に忙殺されて日々を送っているとき、満開の桜に不意を突かれ、過ぎ去った日々を虚しく惜しむのである。僧侶にしてさえであるから、凡夫にはなおさらのこと。

〒605-0035 京都府京都市東山区粟田口三条坊町69−1  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:38Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

金戒光明寺、くろたにさん


 紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称・黒谷さんの名前で親しまれている。寺の始まりは今から約八百年前の鎌倉時代。1175年春、法然上人が浄土宗の確立のため、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが起こりと伝えられている。本尊は阿弥陀如来。
 御影堂大殿には法然上人の座像が安置されている。火災で焼失後昭和十九年に建て替えられたもので、昭和の模範建築物といわれている。
 三門(写真)は1860年に完成。楼上正面に後小松天皇による「浄土真宗最初門」の勅額がある。 時代劇の映画撮影のロケ地としてよく使われているので、見覚えのある人もいるかもしれない。 
  阿弥陀堂は1612年豊臣秀頼により建立。くろ谷に現存する中で一番古い建物。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。
 家康は秀吉の子・秀頼とその母・淀殿を弄んだ。まず手始めとして、秀吉の貯め込んだ財宝をはき出させるために、寺社の再興に使わせた。淀殿がその子・秀頼の名で行った宗教への投資は、この京だけでも北野天満宮、東寺南大門、叡山の横川の中堂、醍醐三宝院仁王門、南禅寺の法堂、岩清水八幡宮・・・京だけではない。それは近畿及びその周辺の寺社にまでおよんだ。
 その一つがこの阿弥陀堂建立であった。
 そして最後には、方広寺の大仏まで再建させた。そして問題の方広寺梵鐘の鐘銘事件へとつながっていく。
 境内は広い。三門の前では、近くの子供達数名が野球の真似事をしていた。  三重塔へ続く階段を登ってゆくと、眼下に京の町並みや鴨川が見える。
  文久二年(1862)十二月、京都守護職の台命が下り、会津藩主松平肥後守容保が、一千の藩兵を率いて上洛。
 その会津藩の本陣となったのがここ黒谷金戒光明寺だった。
 翌文久三年(1863)三月、この京都守護職を勤める会津藩御預かりという立場で、近藤や土方、芹沢らが新撰組として京都市内の警備の任につく事になる。
 2004年の大河ドラマは新撰組であった。そのこともあって、新撰組ゆかりの地を訪ね歩く旅人を見かける。

〒606-8331京都府京都市左京区黒谷町121  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:31Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

円徳院


 豊臣秀吉の妻・北ノ政所(ねね)の終焉の地とされる。
 寧々、禰々、貴族になってからは寧子とも書いた。また、関白の正室は北ノ政所と呼ばれる慣例があった。宮中での公文書では「豊臣吉子」と書かれた。従一位という女性としては最高の位階保持者であった。秀吉は彼女を大事にした。おのずと豊臣家に対する彼女の発言権は大きなものとなった。特に尾張出身の武断派からは重んじられた。
 円徳院の前の道(石畳)はねねの道と呼ばれ、よく観光ガイドや雑誌等でもみかける。
 また、円徳院の出口あたりはこの入り口とは打って変わってにぎやかだ。みやげ物や喫茶店があり、女性客でにぎわっている。
 徳川家康は北ノ政所・寧々を大事にした。秀吉の死後、二年目に起きた関ヶ原の戦いで家康が勝利した裏には、寧々の豊臣家での武断派への影響が大きかった。武断派は寧々の言葉に従い、家康側に付いたのである。彼女は、次は家康の時代であると悟っていたのかもしれない。高台寺を建立するにあたっても家康の援助があったと聞く。
 京都で豊臣時代の高貴な婦人の寺と言えば、大徳寺に芳春院というのがある。前田利家の妻・お松の法名を芳春院と言う。お松とは、岐阜城下の織田家侍屋敷で隣同士の付き合いをしていた「木槿垣の垣根ごし」の立ち話をしていた仲である。両方の夫を亡くしてからも二人の親交は続いた。
 写真は北庭。もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつである。  賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式だが枯山水となっている。このように多数の巨岩大岩がふんだんに置かれている庭は珍しく。これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。
関ヶ原の戦いで、豊臣家は北ノ政所に従った尾張の武断派と淀殿の党派と言ってもいい近江系の文治派の真っ二つに割れた。家康はこれに乗じて天下を得たのである。結果とした豊臣家を滅ぼしたのは、北ノ政所と淀殿、つまり秀吉の妻・妾の争いであったところが、悲しい。  

Posted by koyuki at 14:24Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

西雲院の牡丹


 金戒光明寺(黒谷さん)の塔頭の一つ。1175年に法然上人が丘の上の半畳程の大きさの白河石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびき光が満ちた。これにより上人は、この丘に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりとされる。この石を「紫雲石」という(お堂の中にある)。
 開基の宗厳(ソウゴン)は、秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られたと伝えられ、後に出家して、この石を賜り草庵を結ぶ。その後、多くの念仏者が集い念仏道場として大いに栄えたという。通称「万日寺」と呼ばれる。
 幕末、黒谷一山が京都守護職会津松平侯の本陣となり、西雲院は会津藩戦没者墓地をあずかる。
 文殊塔に至る石段を上り、途中で塔に向かって左に折れ、墓地の中を真っ直ぐ歩いたところに西雲院はある。黒谷さんの塔頭の中では、かなり奥まったところにあるので、山寺のような風情に浸ることができる。
 この日は、牡丹を見に出かけた。旁らで牡丹の花を丹念に写生をする人がいた。

〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:22Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

真如堂


 984年創建の古刹であり、正式名は真正極楽寺。猫を描いた極彩色の「大涅槃図」を安置する。本尊の阿弥陀如来立像は、日本最古の来迎仏で、京都六阿弥陀仏のひとつ。11月15日の「お十夜法要」のとき一般公開される。ちょうどこの頃、一本の木が赤・黄・緑に染まる楓「花の木」も身頃になる。
 春は椿、桜、夏は木槿、菩提樹と沙羅双樹、秋は萩、そうして紅葉を迎える。 写真は夏に参道の両脇に咲いていた木槿の花。 花は一重または八重の白・ピンク・薄紫が見られる。 
 真如堂は東三条院詮子(センシ・一条天皇の母)が浄土念仏の教えを洛中に広め、特に女人を救済するために建てられた。
 本尊の阿弥陀如来は、「うなずきの弥陀」と呼ばれる。寺伝によれば、叡山にて慈覚大師円仁がかやの霊木で如来を彫られ、「京に下って、女人を救い給え」と言われると、三度うなずいた云う。
 真如堂山内の塔頭・吉祥院では、紅葉の前に例年菊花展が催されていた。
 真如堂は三井家(財閥)の菩提寺でもあり、本堂には三井家から奉納されたものが多く目につく(三井の隅立て四つ目結い紋)。
 近くに黒谷さん(金戒光明寺)もあるが、ここ真如堂も法然との関係が深い。法然の三回忌もここで行なわれた。
 参道を登りきると本堂がある。 私はいつも真如堂を訪れるとき、銀閣寺から法然院、安楽寺へと哲学の道を散策した後、坂を下りて白川通りを渡り、急な坂道を登る「東参道」の方から来ることにしている。
 庭(涅槃の庭)も一般に公開されている。 比叡山をはじめ東山三重六峰を借景にし、涅槃をあらわした枯山水。
 庭からは左大文字が見える。大文字山に登っている人まで見える。

〒606-8414京都府京都市左京区浄土寺真如町82  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:20Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

吉田神社


 神楽岡・吉田山にある吉田神社は平安時代に藤原山陰によって建てられた春日四神を祀る藤原氏の氏神に始まる。
 その後、室町時代に吉田兼倶という奇才の持ち主によって大元宮という神殿が建てられ、吉田神道の本山となる。
 吉田兼倶は足利義政、日野富子に付き、応仁の乱の平定に努めたとされる。彼の目指したものは「宗教の統一」であり、この地を諸宗教の中心地とする奇想天外なものであった。
 しかし、今の京都人におそらく吉田神道はあまり知られていない。
 それより、節分の神社としてよく知られている。節分の日に大元宮前に設けられる厄塚は八角の台に、八角の白木の棒を立て、神殿正面から八筋の注連縄を引き渡す。神道では八の数字を尊重する。ここに唯一、吉田兼倶の神道の名残がある。
 吉田神社の前(正確には斜め前辺り)には京都大学のキャンパスがある。私事になるが、仕事の関係でちょくちょく出入りしている。最近は桂に新しくキャンパス(大学院と研究施設)が出来たので、そちらの方へ行く機会が多くなった。
 近くには百万遍知恩寺や真如堂があり、少し足を伸ばせば銀閣寺や哲学の道がある。
 吉田山を登ると(山と言っても丘ほどの高さ)、上に茂庵という木造の由緒ありげな建物がある。今は1階が土産物屋で、2階は喫茶店になっている。東側の席からは如意ヶ岳大文字がよく見える。送り火の夜もやっていて、左大文字や鳥居、舟形まで見えるという。

〒606-8311 京都府京都市左京区吉田神楽岡町30
   
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Posted by koyuki at 15:14Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

知恩寺


 正式には長徳山功徳院百万遍知恩寺と称する浄土宗大本山の一つである。法然上人を開山とし、古くは今出川釈迦堂などと称した。
 今出川通りと東大路の交差点辺りを百万遍という。この北東にあるのが知恩寺であり、反対側(南)が京都大学の吉田キャンパスである。ある仕事で毎月のように工学部へ通っていた頃、昼休みによく境内で休ませてもらった。研究室の窓からも知恩寺の境内が見渡せた。
 そのシステムは工学部から全学への拡張が、この秋に決まったので、これからも何度となく来ることになるだろう。
 法然の教えは、わかりやすく言えば「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるだけで極楽に行くことができるというものである。
 百万遍とはこの念仏を百万遍唱えることを言う。疫病が流行した年、後醍醐天皇の勅命により、宮中にて十七日間にわたって百万遍の念仏を唱え、効験あって疫病は鎮静化したという。
 広い境内では、古本市なども開かれることがある。大念珠繰りは毎月15日の写経会の後に行われ、この日は境内で手作り市も開かれている。
 今回はじめて特別拝観の折りに方丈の庭を見ることができた。南に面して枯山水庭園が広がっている。白い築地塀を背にして、白砂が波紋を描き、右手前に羅漢石、左奥に地蔵が配置されている。曲線を描いた苔の上に小さな刈り込みと石組が施されている。白と緑の対比が美しい。
 方丈へ続く回廊脇には竹の間の庭がある。苔の緑をなぞるように背の低い竹が植えられ、真ん中に白砂を敷いた庭である。ここに生えている竹は、ここにしか生えないと言われている。
 いつもは御影堂の前の広い境内しか見たことがなかったが、この二つの庭はまた春にでも再び訪れてみたいと思った。

〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町103  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:10Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

霊鑑寺の椿


 後水尾天皇が皇女を開基として創建。椿の名木があり、椿の寺とも呼ばれる。 銀閣寺、法然院、安楽寺、霊鑑寺は哲学の道沿いにある。
 霊鑑寺は、臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院であり、当初は現在の南隣にあって渓流に沿い「谷の御所」とも呼ばれていた。
 椿の寺と呼ばれるだけあって、庭には何種類もの椿の名木が花を咲かせていた。
 霊鑑寺へのつま先上がりの坂を登って行くと右手にあの平家物語を題材にした歌舞伎の主人公として有名な「俊寛僧都忠誠之碑」と刻まれた大きな自然石がある。世に云う「鹿ヶ谷謀議」の俊寛である。
 若紫さんの徒然日記より
『 此処は臨済宗南禅寺派の門跡尼院。別名 椿寺。承応2年(1652)後水尾天皇の皇女浄法身院宮宗澄尼を開山として建立され、貞享4年(1687)後西天皇の旧殿を賜り現在地へ移転。今の表門、玄関、書院、居間はこのときの物。書院は後西院御所の旧殿を移したもので狩野永徳や元信筆の襖絵「四季花鳥図」などがある。本堂は享和3年(1803)将軍徳川家斎の寄進。後水尾天皇遺愛の散椿、白牡丹、日光など数多くの名椿がある。
 又、織田有楽斎の「有楽椿」が咲き乱れていて驚いた。毎月吟行している如庵の庭の有楽椿はまだ咲いていなかった気がするのだが、、。
 案内の先生は私と逆で、「はるばる如庵へでかけるのですよ、、」と仰った。尚、昔の「有楽町で逢いましょう」という歌の地名は有楽斎が住んでいたからそのまま地名になったのですよ、、と教えて下さった。肥後椿の木には開花したときの写真が吊るしてあったが、蘂がギッシリ埋っていて可愛くて一度見てみたいナと思った。
 尼宮様の間は初公開との由だった。宮中から帰るときに、可哀想だから、と持たせた桐製の三等身の御所人形は300体以上あるという。しかし、たまに父君(天皇)が逢いにいらしても普通の親子の様に駆け寄る事は出来ず、御簾超しにまみえるだけと聞き、切ない思いがした。
 父君がお座りになる玉座の分厚い畳みの敷物は、床下からの攻撃から身を守るために圧縮した真綿と藁で作られているそうだ。  』

〒606-8422 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:07Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

安楽寺


 鎌倉時代のはじめ浄土宗法然上人の弟子、住蓮房・安楽房が現在の地より東1kmのあたりに「鹿ケ谷草庵」を結んだのが始まりである。
 紅葉が美しいところである。  東方山林に松虫姫・鈴虫姫の悲話を伝える五輪石塔がある。
 当時、新興宗教であった専修念仏(浄土宗)は極めてわかりやすく、実践も容易であったため爆発的?に流行した。 しかし、出る杭は打たれるの例え通り、仏教界(比叡山、興福寺等)から強い反発があった。 そんな折、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守に安楽と上皇の女房が密通したという噂が立ち、上皇の逆麟にふれた。 これだけが理由ではないが、これがきっかけとなって安楽、住蓮、善綽、性願の四名は死罪となり、法然、親鸞他6名の門弟は流罪に処せられた。
 春来たとき、椿の花が屋根の上にこぼれていた。
 住蓮の詠唱する六時礼賛は、その美声と哀調によって多くの女房を魅したと伝えられる。
 安楽は若くして隠遁し法然の門弟となった。法然が「選択本願念仏集」を述作した際には書記役をつとめた。

〒606-8422 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21  

Posted by koyuki at 15:02Comments(0)京都の庭園

2015年04月18日

法然院


 鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の安楽坊・住蓮坊と共に草庵を結んだことに始まる。
 山門を入ると、両側に白い盛砂がある。 水を表す砂壇の間を通る事は、心身を清めて浄域に入ることを意味している。 
 法然は長年比叡山に篭もって仏教学を極めた学者であったが、修行の果てにたどりついた結論は阿弥陀の本願を信じ修行を捨て(絶対他力)愚鈍の身になることであった。
 問 : 酒飲むは、罪にて候か。  法然 : まことには飲むべくもなけれども、この世の習い。
 方丈は、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿を移建したものである。  また、本堂北側の中庭に咲く樹齢三百年の三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。
 春の特別拝観時に、お茶をいただきながら座して眺める三本の椿は格別である。

 罪の軽重をいわず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なし。    法然

〒606-8422京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30  
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Posted by koyuki at 13:43Comments(0)京都の庭園

2015年04月18日

円光寺

  多くの書籍を刊行し、伏見版(元は伏見にあった)または円光寺版と称された。 当時の出版に使用された木活字が残されており、現存する活字では日本最古の活字である。
 庭園の入り口近くにあった大きなつくばいには椿の花が飾られていた。 詩仙堂のすぐ近くにあるのだが、趣は異なる。 庭園の奥には大きな池があり、たくさんの鯉が泳いでいた。

〒606-8147 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13  
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Posted by koyuki at 13:37Comments(0)京都の庭園

2015年04月18日

安養寺

 延暦年間に桓武天皇が平安京に遷都された時、都鎮めの寺として伝教大師が創建した。 この裏には法然上人の吉水草庵の旧跡がある。法然は吉水を本拠として浄土宗の布教活動を行った。  建永の法難により法然上人が流罪になり、専修念仏停止となり、慈鎮和尚により再建。慈円山大乗院安養寺と号した。
 江戸時代初期には慈円山は「円山」と称され、安養寺では六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭があった。各塔頭には贅を尽くした庭園があり、それぞれが貸座敷を営んで大変賑わったという。元禄期には最盛期を迎えた。明治には、まず弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していった。
 左阿弥は、1849年(嘉永2年)に料亭となった後、そのまま現在に至っているが、ホテルは火災に遭い現在はかつての庭園の跡や、塔頭の敷地の跡である平場のみが公園として残っている。  本尊は阿弥陀如来であるが、ここの阿弥陀の台座の蓮華は逆さについている珍しい物である。  
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Posted by koyuki at 13:23Comments(0)京都の庭園

2015年04月18日

粟田神社

 京の七口(入り口)と言えば、北東の鞍馬口、大原に通じる大原口、山中越を通って近江に通じる今道下口(荒神口とも)、東海道への表玄関とも云える粟田口、伏見に通じる五条大橋口、竹田街道に通じる竹田口、南端の鳥羽口、周山街道への長坂口、山陽道へ通じる東寺口、丹波山陰へ向かう西七条口(清蔵口)があります。
 他にもいくつかの口がありますが、このあたりが一般的ではないでしょうか。
 その一つである粟田口にあるのが、ここ粟田神社です。明治の神仏分離前は、感神院新宮または粟田天王社と呼ばれていたらしい。主祭神は八坂神社と同じ牛頭天王である。  ・・・粟田山あわだつ雲は桜なりけり
  粟田山とは山頂を将軍塚と呼ぶ華頂山の別名。神社の横から将軍塚へ登る道が続いている。山峡になっているので、霧雲が湧き立つことがある。このあたりは山桜も多い。春の景観は秋成の歌のごとくである。
  写真は祭の前日、飾り付けが行われ、剣鉾が出されたところを撮ったもの。普段はひっそりとしている。
  粟田の祭は10月10日に行われる。京都でも少なくなった剣鉾差しが見られる祭でもある。
 数基の鉾のなかに瓜鉾がある。八坂と同じく、ここでも瓜が大切なものとされている。

 かっては京焼と言えば、ここ粟田口にあった粟田焼が有名だったという。今は勿論清水焼だが。

〒605-0051 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町
  
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Posted by koyuki at 13:11Comments(0)京都の庭園

2015年04月18日

聴松院で湯豆腐

  聴松院は細川満元の号である。
 入り口には湯どうふの看板がかかっている。  冬に訪れた時は寒かったので、湯豆腐を食べて温まった。
 紅葉シーズンの土日等は観光客が並んでいることもある。 庭園を見ながら湯豆腐が食べられる。
 寒かったので縁側ではなく、部屋の中で火鉢の上におかれた湯豆腐の鍋を3人(子供と私)で囲んで食べました。
 庭は相阿弥作の池泉回遊式庭園である。  冬、お堂の前には雪をつけたように白い梅の花が咲く。

〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86−15
  
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2015年04月18日

金地院の庭

 金地院は大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した禅寺を宗伝長老が南禅寺塔頭に移設して現在に至る。
 庭園への入り口に大徳寺から移建された明智門でがある。 明智門を入ると弁天池があり、池ではハンゲショウ、カキツバタ、スイレンの花々が咲く。  冬にはサネカズラの赤いつややかな実が冬枯れた庭に彩りを添えてくれる。花は夏に咲くが、冬の赤い実とは対照的に地味な花である。
 写真は方丈の庭.。小堀遠州作の鶴亀の庭園。  江戸初期の代表的な枯山水である。 方丈の庭の裏には東照宮があり、徳川家康の遺髪と念持仏が奉られている。

 〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86−12  
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Posted by koyuki at 12:57Comments(0)京都の庭園

2015年04月11日

鞍馬・貴船

  出町柳から叡電に乗り、鞍馬駅から少し歩いてケーブルカーに乗り継ぎ、後はひたすら歩く。 金堂から義経堂、奥の院を経て貴船へ出る。
 鞍馬山から比叡山を眺める。  7月から8月にかけては観光客が多い。それでも涼しさは格別である。街とは5~8度は気温差があるのではないか。  夏、京都の人達は鎖夏の1つとして奥座敷貴船へ行く。 涼を求めて川床に座す。 せせらぎの音を聞きながら川魚料理に舌づつみする。  川の水に素足を浸してみる。 この感覚は他では味わえないだろう。
 偶然にも案内された席の横を見れば、今回のもう一つの目当てである雪ノ下の花が可憐に咲いていた。 自然は誠に不思議なものを造り出す。 この花を見ているとそう思う。  川沿いの道を行く車の無粋さを除けば、言う事はない。
 貴船山と鞍馬山に挟まれた渓谷の貴船は賀茂川源流の地であり、貴船神社は古くから水源を守る神として崇められている。
 貴船神社、奥宮の境内本殿横には社の伝説にまつわる船形石があるが、ここにも雪の下の花がたくさん咲いていた。
 雪の下は日陰の岩や崖を好んで繁殖する。貴船口まで下る途中の中宮の石垣にもちらほらと白くこまかく咲いていた。
 多いところでは降りしきる雪のようにも見えるというが、もう1週間程早く来たほうが花時だったろうか

 京都府京都市左京区鞍馬山  
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2015年04月11日

源光庵の窓から

 鷹峰山宝樹林源光庵と号し、1346年に臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが、1694年に加賀国大乗寺二十七代曹洞宗復古道人卍山道白禅師が住持し、これより曹洞宗に定まったとされる。
 霊芝からできた霊芝観音菩薩が祀られている。  近くには光悦寺、常照寺がある。  悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、角窓は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表しているといわれる。
 本堂の天井を見上げるとそこには血天井がある。伏見桃山城の遺物であり、徳川家康の忠臣鳥居彦右衛門元忠一党千八百人が石田三成軍勢と交戦したが、武運拙く討死し、残る三百八十人が自刃して相果てたときの恨跡(床板)であり、悲劇を伝えている。
 この日は中庭に黄色いつつじが咲いていた。  春先には寺の入り口近くにハクモクレンが咲く。また、本堂の前(拝観入り口近く)には、サンシュユの黄色い花が咲く。
 春、初夏は緑の庭が清清しい。  秋は紅葉が美しい。

 
  
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2015年04月11日

三玄院

 1589年に浅野幸長、石田三成、森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖として創建した。
 春屋、三成、忠政、織部らの墓がまつられている。
 大徳寺には織田信長の墓がまつられている総見院があるが、普段は一般には公開されていない。しかし、昨年の冬に特別拝観があった。ここ三玄院も是非、特別拝観させていただきたいと願っている。
 このサイトでも公開しているが、信長、秀吉とくれば、普通は家康だろうか?私は三成に興味を持った。そして、ここ三玄院にも来てみた。
 関ヶ原の戦いは、三成と家康の戦いであった。片や苦労人家康、否もっと嫌味な言い方をすれば「たぬき親父・家康」、片やエリート官僚三成。 家康は既に堂々たる経歴を持ち、年齢は六十歳、二百五十五万石の大所領を築いていた。三成はといえば、戦国末期に登場し、年齢は四十歳前、所領は二十万石にも満たないというものであり、誰が見ても勝負にもならない。歴史を見ても確かに三成の負けであった。
 しかし、詳細に調べてみると、まんざらでもなかったのである。一見無謀にも思えたこの挑戦は後の日本の「中堅官僚、中堅社員のネットワークで動く」雛形を築いたともいえる。  また、豊臣政権下で三成が推進した検地(これにより日本ではじめてGNPが算出された)、刀狩、そして都市計画(博多、京都、堺)など興味は尽きない。
 三玄院は一般には公開されていないので、まだ入り口しか見たことはないが、織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(コウアン)があり、本堂の襖絵の八方にらみの虎は、原在中の筆によるものらしい。  
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