2015年05月17日
光明寺の紅葉
西山浄土宗総本山光明寺。ここは、平安末期に源頼朝に仕えて活躍した武将・熊谷直実が建立した寺である。
直実は平氏との一ノ谷の戦いにおいて、敵将・平敦盛を討ち取った。
その後は、息子と同じ16歳の敦盛を討ったことから無常を感じ、それをきっかけとして出家、法然に帰依し、敦盛の菩提をともらった。
このくだりは、平家物語や歌舞伎の「熊谷陣屋」、新渡戸稲造の「武士道」でも語られている。
春は桜、秋は紅葉の景勝地としても知られている。特に紅葉の時期、総門を入って、表参道横の薬医門を経て玄関へ通じる「もみじ参道」は美しい。紅葉寺とも称される。11月下旬頃が見頃となる。
紅葉まつりは毎年、11月15日・16日に行われる。
写真(2004年)はもみじ参道の紅葉。他より見頃が遅いところだ。
〒617-0811 京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1
2015年05月17日
愛宕神社
愛宕山上にある旧府社。祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)等。防火の神として各地の愛宕社の根本社。愛宕権現。
清滝の登り口から、月輪寺の方からだと約7km。表参道の方からなら約4km。私は、月輪寺へ寄りたかったので、7kmの山道を登った。かなり急勾配なところもあり、何度か途中で引き返したくなったが、せっかく月輪寺まで来たのだからと我を励まして山頂まで登り切った。
京都の中学校や高校では、伝統的に?1度は愛宕さんへ学校から歩いて登ることになっている。(全ての学校がというわけではないが) 幸か不幸か私は京都の学校ではなかったので、今回がはじめてであった。
途中でトレーニング・ウェアを着て、駆け上がっていく人に出会ったが、昔、清滝の登り口の近くに映画俳優の千葉真一の道場があったらしい。阪神タイガースが優勝した年は、ここがキャンプ地だったそうだ。 ここは、比叡山のように車で登ることはできない。
写真は、表参道を山頂から少し下った辺りの見晴らしのいい場所から眺めた京都の街である。
明智光秀は、本能寺を奇襲する前に、ここ愛宕山へ亀山城から、わずかの従者を連れて登り、勝軍地蔵に戦勝を祈願している。
〒616-8458 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
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2015年05月17日
高山寺とミツバツツジ
国宝石水院は、鎌倉時代初期の寝殿造りの面影を残す貴重な遺構である。鳥獣戯画4巻(国宝)など文化財の宝庫でもある。
私が訪れたのは4月中旬頃だったので、石水院の庭にはシャクナゲがたくさん咲いていた。また、ここまで来るまでの車窓からは、ミツバツツジの群生しているのが見られた。
秋は紅葉の名所でもある。栂尾山と号する真言宗の寺であり、光仁天皇の勅願によって開創され、1206年に後鳥羽上皇の院宣によって明恵上人が再興し、寺名を高山寺と改めた。 広い境内には石水院の他に開山堂、金堂などが立ち並んでいる。
石水院は後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。 境内には茶園があり、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したと云われている。
この由緒から、毎年11月8日には宇治茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。 境内を歩くと老松や杉の古木、北山杉、カエデなどが覆い、昼なお暗い深山の趣きがある。
〒616-8295京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
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2015年05月17日
神護寺の紅葉
809年から14年間、空海が住持として活躍した。薬師如来立像と五大虚空蔵菩薩像は、貞観時代の密教彫刻の傑作と云われる。
紅葉の名所であり、近くには西明寺、高山寺もある。 11月中旬以降下旬までが見頃だが、シーズン中は駐車場も満車になるので、バスで行くか、少し朝早く行けば駐車もできる。
駐車場から神護寺までは紅葉した参道を20分くらい登る。紅葉は誠に美しい。東福寺や永観堂もいいが、やはり高尾の紅葉は格別である。 写真は大師堂(弘法大師住房跡)。空海は長安(中国の都)から、持ち帰った密教の教えを、ここから弘めた。
最澄と空海が共に活躍の場としたところでもある。ここで最澄は空海から密教の勧請を受けた。
面授(人から人へ直接伝える)ではなく、空海の持ち帰った密教の経典を借り受けて、書物によって密教を理解しようとした最澄に、天才空海は冷ややかであった。
木々の緑におおわれて、楓とその色を競うように建っているのは和気公霊廟。その昔、ここは高尾山寺と称する和気氏の私寺であった。
ここへ和気氏が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を招いて彼らの活躍の場とした。
空海はここで十四年間住持し、後に東寺(官寺)を嵯峨天皇から与えられる。
その後、官寺では思うようにならなかったのか、私寺として高野山を開く。そこはかって空海が訪れた長安の都を彷彿とさせた。
地蔵院の庭からは渓谷、錦雲渓が一望できる。 ここから素焼きの皿を投げる 「かわらけ投げ」 が有名である。 眼下には錦織なす清滝川がゆるやかに流れているのが見える。 地蔵院の近くの茶店の脇には白い山茶花が咲いていた。
残念ながら、ここでは書の達人として名高い天才空海のその書を見ることは叶わない。
〒616-8292 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5
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2015年05月17日
愛宕念仏寺 (おたぎねんぶつじ)
称徳天皇(764~770年)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されたのが始まりだという。
平安朝の初めには、東寺に属していたが、鴨川の洪水によって堂宇が流失したため、天台宗の僧・阿闍梨伝燈大法師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興された。
今ある場所は愛宕山の麓、清滝へ通じるトンネルの手前である。大正十一年に東山の松原通り弓矢町から堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係からここへ移築された。
千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれ、両親の信仰の厚かった千手観音にあやかり幼名・千観丸と名付けられた。千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めたとある。(寺伝)
重要文化財に指定されている千観内供の木造がある。内供とは皇居に参内を許された僧位。
千観は空也上人を慕って身を捨て、浄土教に転向し、天皇、貴族に仕える僧ではなく、民衆のために働く乞食僧になった。後に親鸞や一遍に受け継がれることとなる「和讃」(解りやすく信仰の教えを詩にしたもの)を作って、浄土教を民衆に普及した。
境内には千二百体の羅漢の石像があり、その豊かな表情は訪れる人々の心を和ませてくれる。
現在の住職である西村公朝師は東京美術学校の彫刻科を出て、保存技術の教授を務められた彫刻家であり、画家でもある。
千観は「笑仏」と言われた。その影響からか一般の人達が作った千躰の羅漢像も皆、朗らかな笑みを湛えている。
〒616-8439 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2−5
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