2015年05月30日
京都最古の千本釈迦堂?
正式名は大報恩寺。
国宝の本堂は1227年建立の京都最古の建造物です。 おや?と思われるかも知れませんが、京都の町は「応仁の乱」により、ほとんど焼失してしまったので、焼け残ったこの寺が最古となってしまったのです。
応仁の乱の戦場において、この寺が山名宗全を総大将とする西軍の陣(本営)であった。 これが西陣の地名の名残りである。
本堂の柱にはその時の槍傷が今も残されている。
ついでに書いておくと細川勝元の方(東軍)の陣は花の御所(室町第)であったが、ここは今は残っていない。 応仁の乱は京都の中心が主な戦場となったため、洛中のすばらしかったであろう建物は全て灰燼に帰した。残念な事である。
こんな歌が残っている。
「汝(なれ)やしる都は野辺の夕雲雀あかるを見ても落つる涙は」
ヒバリは巣を普通、一面の野原(荒野)にしかつくらない。いかに応仁の乱は京の全てを灰にしてしまったかということである。
だから今日見る京都の古い建築物は、大半が豊臣氏や徳川氏によって再建されたものなのである。
足利義満将軍が「明徳の乱」にて倒れた兵士の追福のため建てた北野経王堂願成就寺の大堂を縮小して移設された小堂が参道脇にある。
〒602-8319 京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町1034
タグ :洛中
2015年05月30日
立本寺の蓮
日蓮宗の本山で、具足山と号す。1321年に四条大宮の地に日像上人が京都最初の道場として開いた妙顕寺竜華院に始まる。1413年に比叡山の衆徒に破却され、その後、立本寺として再興。
勅願寺や幕府の御願寺となり、町衆の信仰を得て隆盛を迎える。天文法華の乱に再び焼かれたあと転々とするが、1708年の大火で焼亡後、現在の地に移った。明治維新前は20か寺の塔頭を擁したが、今は4か寺を残すのみ。
春は桜の名所。7月になると山門に「今年も蓮の花が咲きました」と書かれた札が立てられる。この札につられてやって来た。
聞くと今年(2006年)の10月に完成を予定している客殿前の庭が修復中であるという。お願いして拝観させてもらった。
本殿と客殿は渡り廊下で結ばれている。築山だけの池のない枯山水庭園となっている。 四十九世住職の日倒上人により作庭されたものであるという。
西側には枯滝と見られる石組みがあるらしいが、まだ鬱蒼と木が生茂っているので見えない。鳥や風が運んだ種が育ち、何年も、否何十年もそのままにされていたのだろう。
日蓮宗は折伏(他宗との法論)というイメージが強かったため、日蓮は元より、弟子達も度重なる法難に遭っている。 日蓮宗の和尚に話を聞かせて頂いたことがあるが、やはりその印象は拭えなかった。そう言えば新宗教として有名な創価学会(日蓮宗系)に友達が若い頃入ったと聞いていたが、今はどうしているだろ。
法華経にある「星を砕いてばら蒔き、その一つ一つが人となった」というような話は、科学的にも人は星の衝突によってできた鉱物が核となって生まれたという話と合致する。
〒602-8345京都府京都市上京区七本松仁和寺街道上一番107
2015年05月30日
妙顕寺
具足山妙顕寺と称し、日像聖人が朝廷より寺地を賜り、創建(1321年)した関西で最初の法華霊場である。
日像聖人は十三歳の時、都に入り法難(三度の追放)にも負けずに「南無妙法蓮華経」の布教に勤め、二十七年の後に朝廷より新宗派を許され、布教の大基盤を創った。
豊臣秀吉は、天正11(1583)年大坂城造営に着手すると共に京都では妙顕寺を聚楽第が造営されるまでの間、首都経営の拠点とした。
それに伴い寺院としての妙顕寺は、現在の寺之内地区に移された。
当時の妙顕寺城の跡を示すものとして古城町があり、妙顕寺城跡の石碑がある。
近くには本法寺、宝鏡寺、報恩寺、茶道の裏千家を開いた今日庵、裏千家センター(茶道資料館)がある。また、応仁の乱の激戦地跡などもある。
京都の町は応仁の乱によって、一面の焼け野原となった。堀川を挟んで、東側(細川勝元)と西側(山名宗全)を合わせて二十七万の軍勢が対峙した。
この日は庭園も公開されていた。本法寺や報恩寺の桜を見た後、ここの枝垂れ桜を見にやってきた。ここは紅葉の頃も美しい。 京都では裏道を歩いているといつの間にか広大な寺の境内へ導かれることがあるが、妙顕寺もその一つだ。
本堂前の石灯籠は妙顕寺型といわれて著名なものらしい。東隣の塔頭泉妙院には絵師・緒方光琳の墓がある。
〒602-0005 京都府京都市上京区妙顕寺前町514
2015年05月30日
宝鏡寺の人形展
この前に来た時は閉門(16:00)の時間を少し回ったところだったので、中へは入れずに帰ったのですが、今回は午前中に出かけたので、庭を見ることができました。 人形展として開門しているのですが、私の目的はもちろん庭の方にあるのです。 人形展は3月1日~4月3日までとなっています。
ここは別名を百々御所とも呼ばれています。 これは、歴代に皇女方が出家入山されたことからきています。 室町幕府八代将軍足利義政の妻日野富子の御木像がまつられている。 富子と義政と聞けば応仁の乱を思い出す人は多いだろう。
この寺の本尊は膝の上に鏡を持たれた座像観音だという。伊勢二見ヶ浦で漁師の網にかかって引き上げられたという伝説がある。
椿や桜もいいが、一度伊勢撫子の赤い花が見てみたいものだ。 話では、宝鏡寺では代々咲きつがせてきたそうである。赤いと言ったが、花の色は白、臙脂、淡赤といろいろあるそうだ。残念ながら、花時には拝観されていないので見ることができない。
当時の有栖川宮が植物の大好きな光格天皇に献上したというこの伊勢なでしこの種を、光格帝は宝鏡寺に入った女宮に、本尊にちなんで与えた。その時の植木鉢(百個)がまだ残されているとも聞く。
〒602-0072京都府京都市上京区寺ノ内通堀川東入ル百々町547
タグ :洛中
2015年05月30日
妙蓮寺の芙蓉
本門法華宗の大本山で、日像上人を開基とする。
度々、法難に遭い寺地をかえ、1587年に豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、現在の地に移った。現在の建物は1788年天明の大火後の再建である。 寺宝は長谷川等伯一派の筆になる金碧濃彩障壁画など重要文化財指定が多数ある。
最近では芙蓉の寺として有名だが、銘椿・妙蓮寺椿(2~3月)の発祥地でもある。
本堂前には春を彩る御会式桜(オエシキサクラ)があり、日蓮上人が入滅された10月13日前後から咲きはじめ、お釈迦様生誕の4月8日頃に満開となる。 毎月12日には手作り市・フリーマーケット「西陣楽市楽座桃山文化村」が開催される。
最近よく西陣を歩く、または自転車で散策する。昔ながらの紅殻格子の町屋を見ながら過ぎる。
軒先に家人の丹精込めた草木の花が咲いている。季節の花を見て歩くのが楽しい。植物園や寺の庭で育てられた花もいいが、町屋の野花もいいと思う。 大通りは通らず、出来るだけ細い路地をゆく。
日蓮は「南無妙法蓮華経」ととなえながら、ドンドンドンドンと景気よく太鼓をたたいた。日蓮には浄土教のような無常観はない。あの世ではなくこの世で力強く生きる事を説いた。京都では商人に日蓮宗が多い。日蓮宗は室町時代に京都に進出し、寺がたくさん造られた。
ところ:上京区堀川通寺之内西入ル
2枚目の写真が十六羅漢石庭。桂離宮の造園を指図した妙蓮寺の僧、玉淵坊日首の作。中央の大きな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この石を涅槃像に見立てて、回りに十五の羅漢石を配する。十五?十六ではないのかと思われるだろう。それは庭を見ている自身であるという。
”余の花は みな末寺なり 妙蓮寺” 宗祇の歌で有名な妙蓮寺椿は今も毎年大きな花を咲かせる。
〒602-8418京都府京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875