2015年05月31日
上品蓮台寺
聖徳太子が開創したと伝えられる古刹。蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺。聖徳太子が創建した当初は香隆寺と称したが、960年宇多法皇の勅願により、寛空僧正が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれる。
当時は、広大な寺域に伽藍が建ち並び壮大なものであったらしいが、ここも京都の多くに例に漏れず、応仁の乱の兵火により焼失してしまった。後(1596年)に性盛上人が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれたが、現在支院は三院を残すのみとなっている。
本堂には村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には本尊延命地蔵菩薩像を安置している。他にも国宝等の文化財を多く蔵している。
ここは隠れた桜の名所である。寺の前は千本通りだが、少し下がると千本ゑんま堂があり、東へ行くと西陣の街中にいくつかの寺が点在する。春は桜を求めてこの辺りを徘徊する人も多い。
平安時代の代表的な仏師・定朝の墓があり、毎年11月1日に全国の仏師が集まり法要が営まれる。
〒603-8303 京都府京都市北区紫野十二坊町33−1
タグ :洛中
2015年05月31日
千本ゑんま堂
正式名称は引接寺。いんじょうじと読む。光明山と号す真言宗高野山金剛峯寺に属する寺であるが、京都の人には「千本閻魔堂」の方が通りがいい。
後一条天皇の寛仁年間、定覚律師が法界四生のために大念仏をはじめたのが起こりとされる。本尊に3m近くある閻魔像を祀る。
今は千本通りの商店街に面して建っているが、昔はこの辺り一帯は千本の桜といわれた程に、たくさんの桜が植わっていた。
境内の十重の紫式部供養塔横に植わっている桜は「普賢象桜」という珍しい種類の桜である。(写真)桜の花の中から出る幼葉が、普賢菩薩が乗る像の鼻のように見えることから、ゑんま堂普賢象桜という名が付けられた。
しかし、この桜は房ごと落花するため実も種も取れない。ならどうして生まれるかと言えば、まともな桜が多くある中に突然変異のように生まれるのだという。
足利義満の時代に桜の盛りを期して念仏狂言がとり行われた。それが今でも春の大念仏狂言として残っている。(毎年5月1日から4日) 夏は盂蘭盆会に精霊迎えでにぎわう。
近くには上品蓮台寺がある。桜の咲いている頃(4月上旬)なら、ここの普賢象桜を見た後、上品蓮台寺へも寄られるといい。小さな寺だが、境内を覆うように桜が咲いている。隠れた名所である。
千本通りを横切って、商店街を下れば釘抜き地蔵がある。
〒602-8307京都府京都市上京区千本芦山寺上閻魔前34
タグ :洛中
2015年05月31日
大将軍八神社
平安建都の際に、桓武天皇が怨霊封じのためのシステム(結界)として導入したものの一つとして、この大将軍社があった。
大将軍とは、陰陽道にいう太白(金星・西方)の精で、方位をつかさどる神である。このため、昔から建築、移動、旅行などに関して世間の崇敬を集めてきた。
境内の保存庫には、武装像、束帯像、童子像など合わせて七十九体の重要文化財に指定された「神像」が安置されている。
京都にある神社仏閣の例にもれず、この神社も街に溶け込んでいて、うっかり見落として、その前を通り過ぎてしまうこともある。間口はけして広くない。
京都には京都人の食をまかなう商店街がいくつかある。その一つが観光客もよく訪れる「錦市場」だが、あそこはどちらかというと御客さん用である。ここ大将軍社の前にある北野商店街は、京都人の一般家庭の台所である。
気どってなどいない、京都の素顔に合える。 値段も安い。 京野菜や駄菓子、漬物、川魚、普段着、金物・・・なんでも揃っている。
北野商店街をまっすぐ東へ歩くと千本商店街に突き当たる。
大将軍の祭りは豪快だ。写真は西大路通りの交差点の真ん中で、神輿を持ち上げているところ。(10月の第4日曜)
近くには散椿で有名な椿寺もある。
〒602-8374 京都府京都市上京区一条御前西入3西48
タグ :洛中
2015年05月31日
福勝寺・左近の桜
河内国(大阪府)古市郡中村に真言宗善通寺派の寺として創建されたが、1257年に覚済上人によって京都へ移された。
歴代皇室の尊崇あつく、後陽成天皇のときに勅願寺とされ、後西天皇は紫宸殿の正面階段下の東側にあった左近の桜を分栽された。 当時は桜寺とも称された。 しかし、この左近の桜は近年枯死し、今はこれにかわる二代目の桜が植えられている。
他にも左近の桜は雲ヶ畑の福蔵院にも植え継がれている。
豊臣秀吉が武運を祈願して千成瓢箪を寄進し、千成瓢箪を旗印に頂いたので通称では「ひょうたん寺」とも呼ばれている。
最近では京都市中心部の観音霊場をめぐる洛陽三十三所観音巡礼が、明治時代初期以来百数十年ぶりに再興された。福勝寺も札所の一つに数えられているので、公開されるようになった。
それまでは年に一度、節分のときしか開かれていなかった。 節分にはひょうたんのお守りが授与される。
この日は門が開いていたので、満開の左近の桜を見ることができた。
いにしへの雲井のさくら移しあれば
又春にあふ御代ぞしらるる
〒602-8359 京都府京都市上京区七番町323−1
タグ :洛中
2015年05月31日
椿寺
正式名称は昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。 726年に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりとされる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代の初期に戦火で消失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、1589年に豊臣秀吉の命によって現在の地に移った。
地蔵堂に安置されている鍬形の地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝えられる。書院の前庭には、かって有名な「散り椿」があったが、今は枯れてしまって、二代目の樹齢百年の椿が毎年五色の花をたくさん咲かせてくれている。
初代の散り椿は、加藤清正が朝鮮蔚山(ウルサン)城から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに地蔵院に献木されたものであった。
秀吉は晩年、自己肥大が昂じて、朝鮮へ首都を移し、中国をも我がものにしようという妄想を抱いた。平和に暮らしていた朝鮮人にとっては、いい迷惑であった。
京都には椿の名所が多い。清正が持ち帰った散り椿は種子がよくできたとみえて、市内には、この品種の子孫も多いと聞く。
後に朝鮮から来た僧によって里帰りし、蔚山でも、また根付いたという。
子規の句に
「椿寺の椿の花は散りてこそ」
というのがあるが、確かによく手入れされた苔庭の落花の風情を訪ね来る人も多い。
〒603-8332 京都府京都市北区大将軍川端町2
タグ :洛中