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2015年05月31日

上品蓮台寺


 聖徳太子が開創したと伝えられる古刹。蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺。聖徳太子が創建した当初は香隆寺と称したが、960年宇多法皇の勅願により、寛空僧正が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれる。
 当時は、広大な寺域に伽藍が建ち並び壮大なものであったらしいが、ここも京都の多くに例に漏れず、応仁の乱の兵火により焼失してしまった。後(1596年)に性盛上人が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれたが、現在支院は三院を残すのみとなっている。
 本堂には村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には本尊延命地蔵菩薩像を安置している。他にも国宝等の文化財を多く蔵している。
 ここは隠れた桜の名所である。寺の前は千本通りだが、少し下がると千本ゑんま堂があり、東へ行くと西陣の街中にいくつかの寺が点在する。春は桜を求めてこの辺りを徘徊する人も多い。
 平安時代の代表的な仏師・定朝の墓があり、毎年11月1日に全国の仏師が集まり法要が営まれる。

 〒603-8303 京都府京都市北区紫野十二坊町33−1  
タグ :洛中


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2015年05月31日

千本ゑんま堂


 正式名称は引接寺。いんじょうじと読む。光明山と号す真言宗高野山金剛峯寺に属する寺であるが、京都の人には「千本閻魔堂」の方が通りがいい。
 後一条天皇の寛仁年間、定覚律師が法界四生のために大念仏をはじめたのが起こりとされる。本尊に3m近くある閻魔像を祀る。
 今は千本通りの商店街に面して建っているが、昔はこの辺り一帯は千本の桜といわれた程に、たくさんの桜が植わっていた。
 境内の十重の紫式部供養塔横に植わっている桜は「普賢象桜」という珍しい種類の桜である。(写真)桜の花の中から出る幼葉が、普賢菩薩が乗る像の鼻のように見えることから、ゑんま堂普賢象桜という名が付けられた。
 しかし、この桜は房ごと落花するため実も種も取れない。ならどうして生まれるかと言えば、まともな桜が多くある中に突然変異のように生まれるのだという。
 足利義満の時代に桜の盛りを期して念仏狂言がとり行われた。それが今でも春の大念仏狂言として残っている。(毎年5月1日から4日) 夏は盂蘭盆会に精霊迎えでにぎわう。
 近くには上品蓮台寺がある。桜の咲いている頃(4月上旬)なら、ここの普賢象桜を見た後、上品蓮台寺へも寄られるといい。小さな寺だが、境内を覆うように桜が咲いている。隠れた名所である。
 千本通りを横切って、商店街を下れば釘抜き地蔵がある。

 〒602-8307京都府京都市上京区千本芦山寺上閻魔前34  
タグ :洛中


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2015年05月31日

大将軍八神社


 平安建都の際に、桓武天皇が怨霊封じのためのシステム(結界)として導入したものの一つとして、この大将軍社があった。
 大将軍とは、陰陽道にいう太白(金星・西方)の精で、方位をつかさどる神である。このため、昔から建築、移動、旅行などに関して世間の崇敬を集めてきた。
 境内の保存庫には、武装像、束帯像、童子像など合わせて七十九体の重要文化財に指定された「神像」が安置されている。
 京都にある神社仏閣の例にもれず、この神社も街に溶け込んでいて、うっかり見落として、その前を通り過ぎてしまうこともある。間口はけして広くない。
 京都には京都人の食をまかなう商店街がいくつかある。その一つが観光客もよく訪れる「錦市場」だが、あそこはどちらかというと御客さん用である。ここ大将軍社の前にある北野商店街は、京都人の一般家庭の台所である。

 気どってなどいない、京都の素顔に合える。 値段も安い。 京野菜や駄菓子、漬物、川魚、普段着、金物・・・なんでも揃っている。
 北野商店街をまっすぐ東へ歩くと千本商店街に突き当たる。
 大将軍の祭りは豪快だ。写真は西大路通りの交差点の真ん中で、神輿を持ち上げているところ。(10月の第4日曜)
 近くには散椿で有名な椿寺もある。

 〒602-8374 京都府京都市上京区一条御前西入3西48  
タグ :洛中


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2015年05月31日

福勝寺・左近の桜


 河内国(大阪府)古市郡中村に真言宗善通寺派の寺として創建されたが、1257年に覚済上人によって京都へ移された。
 歴代皇室の尊崇あつく、後陽成天皇のときに勅願寺とされ、後西天皇は紫宸殿の正面階段下の東側にあった左近の桜を分栽された。 当時は桜寺とも称された。 しかし、この左近の桜は近年枯死し、今はこれにかわる二代目の桜が植えられている。
 他にも左近の桜は雲ヶ畑の福蔵院にも植え継がれている。
  豊臣秀吉が武運を祈願して千成瓢箪を寄進し、千成瓢箪を旗印に頂いたので通称では「ひょうたん寺」とも呼ばれている。 
 最近では京都市中心部の観音霊場をめぐる洛陽三十三所観音巡礼が、明治時代初期以来百数十年ぶりに再興された。福勝寺も札所の一つに数えられているので、公開されるようになった。
 それまでは年に一度、節分のときしか開かれていなかった。 節分にはひょうたんのお守りが授与される。 
 この日は門が開いていたので、満開の左近の桜を見ることができた。 
   いにしへの雲井のさくら移しあれば
          又春にあふ御代ぞしらるる

 〒602-8359 京都府京都市上京区七番町323−1  
タグ :洛中


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2015年05月31日

椿寺


 正式名称は昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。 726年に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりとされる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代の初期に戦火で消失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、1589年に豊臣秀吉の命によって現在の地に移った。
 地蔵堂に安置されている鍬形の地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝えられる。書院の前庭には、かって有名な「散り椿」があったが、今は枯れてしまって、二代目の樹齢百年の椿が毎年五色の花をたくさん咲かせてくれている。
 初代の散り椿は、加藤清正が朝鮮蔚山(ウルサン)城から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに地蔵院に献木されたものであった。
 秀吉は晩年、自己肥大が昂じて、朝鮮へ首都を移し、中国をも我がものにしようという妄想を抱いた。平和に暮らしていた朝鮮人にとっては、いい迷惑であった。
 京都には椿の名所が多い。清正が持ち帰った散り椿は種子がよくできたとみえて、市内には、この品種の子孫も多いと聞く。
 後に朝鮮から来た僧によって里帰りし、蔚山でも、また根付いたという。
 子規の句に
  「椿寺の椿の花は散りてこそ」 
   というのがあるが、確かによく手入れされた苔庭の落花の風情を訪ね来る人も多い。

 〒603-8332 京都府京都市北区大将軍川端町2
  
タグ :洛中


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2015年05月30日

京都最古の千本釈迦堂?


 正式名は大報恩寺。
 国宝の本堂は1227年建立の京都最古の建造物です。 おや?と思われるかも知れませんが、京都の町は「応仁の乱」により、ほとんど焼失してしまったので、焼け残ったこの寺が最古となってしまったのです。
 応仁の乱の戦場において、この寺が山名宗全を総大将とする西軍の陣(本営)であった。 これが西陣の地名の名残りである。
 本堂の柱にはその時の槍傷が今も残されている。
 ついでに書いておくと細川勝元の方(東軍)の陣は花の御所(室町第)であったが、ここは今は残っていない。 応仁の乱は京都の中心が主な戦場となったため、洛中のすばらしかったであろう建物は全て灰燼に帰した。残念な事である。
 こんな歌が残っている。
 「汝(なれ)やしる都は野辺の夕雲雀あかるを見ても落つる涙は」
 ヒバリは巣を普通、一面の野原(荒野)にしかつくらない。いかに応仁の乱は京の全てを灰にしてしまったかということである。
 だから今日見る京都の古い建築物は、大半が豊臣氏や徳川氏によって再建されたものなのである。
  足利義満将軍が「明徳の乱」にて倒れた兵士の追福のため建てた北野経王堂願成就寺の大堂を縮小して移設された小堂が参道脇にある。

 〒602-8319 京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町1034  
タグ :洛中


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2015年05月30日

立本寺の蓮


日蓮宗の本山で、具足山と号す。1321年に四条大宮の地に日像上人が京都最初の道場として開いた妙顕寺竜華院に始まる。1413年に比叡山の衆徒に破却され、その後、立本寺として再興。
 勅願寺や幕府の御願寺となり、町衆の信仰を得て隆盛を迎える。天文法華の乱に再び焼かれたあと転々とするが、1708年の大火で焼亡後、現在の地に移った。明治維新前は20か寺の塔頭を擁したが、今は4か寺を残すのみ。 
 春は桜の名所。7月になると山門に「今年も蓮の花が咲きました」と書かれた札が立てられる。この札につられてやって来た。
 聞くと今年(2006年)の10月に完成を予定している客殿前の庭が修復中であるという。お願いして拝観させてもらった。
 本殿と客殿は渡り廊下で結ばれている。築山だけの池のない枯山水庭園となっている。 四十九世住職の日倒上人により作庭されたものであるという。
 西側には枯滝と見られる石組みがあるらしいが、まだ鬱蒼と木が生茂っているので見えない。鳥や風が運んだ種が育ち、何年も、否何十年もそのままにされていたのだろう。
 日蓮宗は折伏(他宗との法論)というイメージが強かったため、日蓮は元より、弟子達も度重なる法難に遭っている。 日蓮宗の和尚に話を聞かせて頂いたことがあるが、やはりその印象は拭えなかった。そう言えば新宗教として有名な創価学会(日蓮宗系)に友達が若い頃入ったと聞いていたが、今はどうしているだろ。
 法華経にある「星を砕いてばら蒔き、その一つ一つが人となった」というような話は、科学的にも人は星の衝突によってできた鉱物が核となって生まれたという話と合致する。

 〒602-8345京都府京都市上京区七本松仁和寺街道上一番107  
タグ :洛中蓮の花


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2015年05月30日

妙顕寺


 具足山妙顕寺と称し、日像聖人が朝廷より寺地を賜り、創建(1321年)した関西で最初の法華霊場である。
 日像聖人は十三歳の時、都に入り法難(三度の追放)にも負けずに「南無妙法蓮華経」の布教に勤め、二十七年の後に朝廷より新宗派を許され、布教の大基盤を創った。
 豊臣秀吉は、天正11(1583)年大坂城造営に着手すると共に京都では妙顕寺を聚楽第が造営されるまでの間、首都経営の拠点とした。
 それに伴い寺院としての妙顕寺は、現在の寺之内地区に移された。
 当時の妙顕寺城の跡を示すものとして古城町があり、妙顕寺城跡の石碑がある。
  近くには本法寺、宝鏡寺、報恩寺、茶道の裏千家を開いた今日庵、裏千家センター(茶道資料館)がある。また、応仁の乱の激戦地跡などもある。
 京都の町は応仁の乱によって、一面の焼け野原となった。堀川を挟んで、東側(細川勝元)と西側(山名宗全)を合わせて二十七万の軍勢が対峙した。
 この日は庭園も公開されていた。本法寺や報恩寺の桜を見た後、ここの枝垂れ桜を見にやってきた。ここは紅葉の頃も美しい。 京都では裏道を歩いているといつの間にか広大な寺の境内へ導かれることがあるが、妙顕寺もその一つだ。
 本堂前の石灯籠は妙顕寺型といわれて著名なものらしい。東隣の塔頭泉妙院には絵師・緒方光琳の墓がある。

 〒602-0005 京都府京都市上京区妙顕寺前町514  
タグ :洛中


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2015年05月30日

宝鏡寺の人形展


 この前に来た時は閉門(16:00)の時間を少し回ったところだったので、中へは入れずに帰ったのですが、今回は午前中に出かけたので、庭を見ることができました。  人形展として開門しているのですが、私の目的はもちろん庭の方にあるのです。 人形展は3月1日~4月3日までとなっています。
 ここは別名を百々御所とも呼ばれています。  これは、歴代に皇女方が出家入山されたことからきています。  室町幕府八代将軍足利義政の妻日野富子の御木像がまつられている。 富子と義政と聞けば応仁の乱を思い出す人は多いだろう。
 この寺の本尊は膝の上に鏡を持たれた座像観音だという。伊勢二見ヶ浦で漁師の網にかかって引き上げられたという伝説がある。
  椿や桜もいいが、一度伊勢撫子の赤い花が見てみたいものだ。 話では、宝鏡寺では代々咲きつがせてきたそうである。赤いと言ったが、花の色は白、臙脂、淡赤といろいろあるそうだ。残念ながら、花時には拝観されていないので見ることができない。
 当時の有栖川宮が植物の大好きな光格天皇に献上したというこの伊勢なでしこの種を、光格帝は宝鏡寺に入った女宮に、本尊にちなんで与えた。その時の植木鉢(百個)がまだ残されているとも聞く。
 
 〒602-0072京都府京都市上京区寺ノ内通堀川東入ル百々町547  
タグ :洛中


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2015年05月30日

妙蓮寺の芙蓉


 本門法華宗の大本山で、日像上人を開基とする。
 度々、法難に遭い寺地をかえ、1587年に豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、現在の地に移った。現在の建物は1788年天明の大火後の再建である。  寺宝は長谷川等伯一派の筆になる金碧濃彩障壁画など重要文化財指定が多数ある。
 最近では芙蓉の寺として有名だが、銘椿・妙蓮寺椿(2~3月)の発祥地でもある。
 本堂前には春を彩る御会式桜(オエシキサクラ)があり、日蓮上人が入滅された10月13日前後から咲きはじめ、お釈迦様生誕の4月8日頃に満開となる。  毎月12日には手作り市・フリーマーケット「西陣楽市楽座桃山文化村」が開催される。
 最近よく西陣を歩く、または自転車で散策する。昔ながらの紅殻格子の町屋を見ながら過ぎる。
 軒先に家人の丹精込めた草木の花が咲いている。季節の花を見て歩くのが楽しい。植物園や寺の庭で育てられた花もいいが、町屋の野花もいいと思う。  大通りは通らず、出来るだけ細い路地をゆく。
 日蓮は「南無妙法蓮華経」ととなえながら、ドンドンドンドンと景気よく太鼓をたたいた。日蓮には浄土教のような無常観はない。あの世ではなくこの世で力強く生きる事を説いた。京都では商人に日蓮宗が多い。日蓮宗は室町時代に京都に進出し、寺がたくさん造られた。
 ところ:上京区堀川通寺之内西入ル

 2枚目の写真が十六羅漢石庭。桂離宮の造園を指図した妙蓮寺の僧、玉淵坊日首の作。中央の大きな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この石を涅槃像に見立てて、回りに十五の羅漢石を配する。十五?十六ではないのかと思われるだろう。それは庭を見ている自身であるという。
 ”余の花は みな末寺なり 妙蓮寺”  宗祇の歌で有名な妙蓮寺椿は今も毎年大きな花を咲かせる。

 〒602-8418京都府京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875  
タグ :洛中芙蓉


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2015年05月24日

妙覚寺の紅葉


 京都市の案内によると「妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで妙顕寺、立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている」。
 開山は日像聖人。1378年に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地(四条大宮)に創建した。
 写真の大門は豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを移築したと伝えられる。 本瓦葺、切妻造の薬医門で、特色として左右にくぐり戸を配し、長い袖塀をもつ。
 大門から本堂までは長い石畳の道が伸びている。途中に向日葵の花が咲いていた。
  本能寺の変のときは、信長の嫡男信忠の宿所(二条衣棚に移っていた)となり、明智光秀に襲われて炎上している。
 この後、秀吉によって、現在の地に移された。
 信長の岳父(舅)・斉藤道三は若い頃この寺で修行していたということもあり、信長も度々ここを京都の宿所とした。
 信長はなぜか京都には城もしくは館を建てなかった。これが後に災いすることになる。
 境内の墓地には狩野元信、永徳の墓もある。
 この辺りは日蓮宗の大寺、妙顕寺、本法寺、妙蓮寺があり、宝鏡寺、報恩寺など寺が多い。また、小川通りを下って行けば、縦の目が細い千本格子の京都の町屋も見られる。 そんな事もあって、私はこの辺りを散策するのが好きだ。
 本法寺や報恩寺の山門の前には石橋がある。だが、今は名残りであり、小川は埋め立てられてない。 
 その昔、この小川を挟んで、応仁の乱が繰り広げられた。

 〒602-0007京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135  
タグ :洛中紅葉


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2015年05月24日

阿弥陀寺


 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来。1532年~1554年、清玉上人の開創になり、当初は現在の今出川大宮東に八町四方の境内と塔頭11ヶ寺を構えていた。
 当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、松永久秀によって焼かれた東大寺大仏殿の勧進職を命じると共に、当時を勅願所とされた。この時、織田信長は「分国中人別、毎月一銭を充てよ」という賦課を命じて、清玉の勧進を支えた。
 本能寺の変を知るや、清玉は弟子を伴って直ちに現場へ急行し、焼け跡から分別のつかないほど散在していた骨灰をかき集めて、阿弥陀寺に持ち帰り密葬に付した。
 本堂には信長、信忠親子の木像が安置され、墓地には信長、信忠及び家臣の墓がある。
 後にこの事を知った秀吉は、阿弥陀寺にて葬儀を営もうとしたが、清玉はこれを辞退した。 清玉には阿弥陀寺は世俗や権力の介入を拒み、そこから超越している「無縁所」であるという誇りもあったが、秀吉が信長の遺児をないがしろにして、権力を握ろうとする態度に不満であったとも云われる。
 阿弥陀寺は寺町通りに面している。同じ通りに北から天寧寺、阿弥陀寺、十念寺、仏陀寺などいくつもの寺が軒(山門)を並べている。少し下れば紫式部ゆかりの廬山寺もある。 御所を抜けてこの寺町通りを上がる散策の道は春の私の楽しみの一つだ。特に仏陀寺と天寧寺の庭には四季折々の花が目を楽しませてくれる。

 〒602-0802 京都府京都市上京区鶴山町14  
タグ :洛中


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2015年05月24日

天寧寺・額縁の門


 てんねいじと読む。もとは会津若松にあり、開山傑堂能勝大和尚は楠木正成の八男であると言われている。曹洞宗永平寺派。本尊は仏師春日作と伝えられる釈迦如来である。観音堂には後水尾天皇の念持仏「十一面観音菩薩」と東福門院の念持仏「薬師如来」が安置されている。  境内墓地には江戸時代初期の茶人として有名な金森宗和公の墓がある。侘茶の千宗旦と対比され「姫宗和」とよばれた優雅で上品な茶風は、禁中・公家の茶の湯に大きな影響を与えたとされる。
 普段は非公開の寺である。
 山門を通して比叡山が眺められる。あたかも額縁に入れたように見えるところから「額縁の門」といわれる。
 確かに比叡山や大文字山の借景がみごとだ。寺域に点在する数々の野草や木々が目を楽しませてくれる。蝋梅、侘助、南天も景色に溶け込んでいる。  もう少しするとヒゴスミレの白い花が見られる。春が待ち遠しい。
 ここの庭には晩春から夏にかけてマツヨイグサ(待宵草)がアヤメとともに垣根を彩ると聞いているので、またその頃来てみたいが、普段は非公開なので、その頃は山門は閉ざされているのだろうか。せめて山門が開かれていれば正面の庭だけでも覗くことができるのだが。

   
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2015年05月24日

常林寺


 浄土宗・光明山摂取院常林寺と号する。1573年に念仏専修僧魯道和尚によって開創された。当時は寺町通荒神口にあったが、1671年の大火で類焼して、現在の地(出町柳)へ地所替えとなった。本尊は来迎の阿弥陀三尊、境内の世継子育地蔵尊は門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めた。
 昔から「萩の寺」として知られ、毎年9月初めより萩の花が庭を覆うように咲く。(写真)
 私は萩の咲く頃、御所の横に建つ梨木神社(ここも萩で知られる)を訪れた後、加茂大橋を渡って、ここに立ち寄る。
 海軍伝習生として長崎や神戸にしばしば赴いた若き日の勝海舟が、京における宿坊にしていたとも云われる。
 常林寺の前で高野川と賀茂川が合流し、鴨川となって京の街を流れる。
 ある庭師が京都で一番好きな庭を尋ねられて、「加茂大橋からの加茂川の眺め」だと答えた。私もここから(写真)の眺めが好きだ。
 実は鴨川は人工的に造った川だという説がある。昔は京都の中心を流れていたのだが、川が氾濫し洪水などが多かったために、流れを東(今の鴨川)へ移したというのだ。
 川を飛び石伝いに渡っていく子供達をここから眺めているのも好きだ。  
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2015年05月24日

清浄華院


 清浄華院(ショウジョウケイン)
 860年に清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所内に御内仏殿の造営に着手し、864年に落成、禁裏内道場として発足したのが始まりと云われる。現在も梨木神社をはさんで御所の東側に位置する。
 はじめは天台宗であったが、後に後白河天皇が法然上人源空を住持としたところから浄土宗に転宗した。
 本堂には法然上人像や清和・村上両天皇の尊像と歴代天皇の尊碑を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓をはじめ、立入宗継や山科言継、姉小路公知など歴史上著名な人物の墓も多い。
 私が訪ねた目的は立入宗継という人物に興味を持ったからだが、墓までは探せなかった。立入宗継は織田信長と朝廷(天皇)の間を奔走し、正親町天皇から信長への決勝綸旨(朝敵追討命令)発給を推進した。
 これにより信長は「天下布武」を掲げて天皇の天下を静謐するという正当な目的を得て、全国制覇に乗り出したことになる。この綸旨には禁裏修理等の朝廷経済を救う命も含まれていた。この働きをもって後の世に立入宗継は勤皇家としての栄誉を受けたのである。
 信長は将軍義昭を京都へ上洛の表向きの錦の御旗として利用し、決勝綸旨の命を果たした後は、義昭を傀儡化し排除する。そして朝廷から将軍職の推任を得ようとしたところで本能寺の変で没するのである。  この推任を朝廷は良しとは思っていなかった。これが朝廷と明智とを結ぶ線である。これに伴天連(イエズス会を中心とした南欧勢力)が絡んでおり、実は黒幕であったという説もある。
 ・・・そんな歴史とは無関係に、現在の清浄華院はそれほど大きくもない寺域をさらに身売りして(マンションが建設されていた)、御所の脇でひっそりとしていた。

 〒602-0852京都府京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町395  
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2015年05月23日

廬山寺(ろさんじ)と紫式部


 京都を散策する方法としては市バスか自転車をお薦めする。 車では駐車場を探すのに時間がかかるし、駐車場さえ近くにない場合がある。
 市バスなら観光地なので、大概の寺院近くにはバス停がある。 気候がよければ自転車がいい。 家から自転車に乗って市内ならどこへでも行く。 運動にもなるし、自転車なら門の前まで乗り着けて、そこに駐輪し拝観できる。
 四条通から堀川を上がって、今出川を右折し烏丸通まで来れば、相国寺も御所もすぐそこである。 今日は相国寺から御所を通って櫨山寺へ。 入り口の門をくぐると右手奥に鐘楼が見える。  この地は紫式部の邸宅跡として知られ、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、五十九歳で逝去した。  この邸宅で「源氏物語」、「紫式部日記」、「紫式部集」を執筆したとされる。
 庭の向こうは歴代天皇の皇子・皇女の陵墓がある。  ここで光格天皇は再三月見の宴を催したそうである。
 庭は枯山水の平庭があり、苔の緑と白砂が美しいコントラストを見せている。  夏から秋にかけて桔梗の花が咲く。
 道を隔てた向かい側(御所との間)には梨木神社があり、秋は萩の花が境内を埋め尽くすように咲く。9月の中旬が見頃で、この頃、萩まつりが催される。

 〒602-0852 京都府京都市上京区北之辺町  
タグ :洛中


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2015年05月23日

護王神社


 神社の略記によると 「護王神社は、はじめ洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られていましたが、確かな創建年は伝えられていません」とある。 ただ、神護寺には確か和気清麻呂公の霊廟が境内に今もある。
 和気公が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を神護寺(当初は和気公の私寺) に招いて彼らの活躍の場とした。
 後の嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられましたと同じく略記に記されている。 その後、明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前の現在地に社殿を造営、姉君の和気広虫姫を合わせ祀り、御遷座されたと略記は続く。  その後、崇敬者により境内に霊猪像(狛いのしし)が奉納され、今も「いのしし神社」とも呼ばれて親しまれている。
 境内には結婚式場もあり、その前に「さざれ石」があり、その前に和気公の銅像が立っている。
 干支が猪の年は、例年になく初詣の参拝客が大勢訪れる。 実は私も猪年の生まれである。普段は氏神さんである松尾大社か、親戚の家へ年始参りに行ったついでに天神さんへお参りに行くくらいだが、猪年は(写真:2007年)は一人で護王神社まで参拝に出かけた。その時買ったお守りは今も本棚に置いてある。狛いのししの刺繍がかわいい。今年も良いことがありますように。

 〒602-8011京都府京都市 上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385  
タグ :洛中


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2015年05月23日

閑院宮家跡


 京都御苑西南角にある閑院宮邸跡が修復され、公開されていると聞いたので、見学に行ってきました。
 ここは江戸時代から続いた閑院宮家の屋敷跡です。もともと京都御苑は、江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅があった公家町でした。  閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家のひとつで、東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立されたそうです。  東山天皇の時代は、五代将軍徳川綱吉による生類憐れみの令発布や赤穂浪士の討ち入りなどが世情をにぎわしていた。
 この後の中御門天皇の時代に入り、朝幕関係はきわめて良好であり、閑院宮の創設などは、その反映といえる。
 写真は中庭です。  木造平屋建の内部には、収納展示室があり、京都御苑の自然と歴史に関する写真や絵図、閑院宮家ゆかりの品々が展示されています。  広い庭園も歩いて見学できるようになっています。
 歴史的価値が高い閑院宮邸跡を保存し、公家屋敷としての面影を遺す建築と庭園を活用するために、平成15年から3ヵ年をかけて全面的な改修が行われ、平成18年3月に竣工した。
 庭には芝生が敷き詰められ、天気も良かったので、つい寝転んでみたくなった。
 その築地塀の向こうが、丸太町通りであり、たくさんの車が行きかっているとは、全く想像できないほど、静かな空間であった。

  
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2015年05月23日

京都御苑


 砂利敷の広い苑路と築地塀、芝生と松林で構成される景観は、京都御苑の典型的な風景としてすっかり定着し、親しまれています。しかし御苑が現在のような姿に整備されたのは明治以降であり、それまでは約二百軒の公家屋敷が建ち並ぶ公家町を形成していた。明治2年の東京遷都に伴って多くの公家達も東京に移住し、御所周辺は急速に荒廃した。その後、天皇の御沙汰もあり、皇室苑地として整備され現在の京都御苑となった。
 御苑にはたくさんの巨樹がありますが、最初の1枚は一条邸跡のイチョウの木です。樹高約21mだそうです。秋の紅葉の時期に黄色く染まったイチョウの巨樹は、祐ノ井(サチノイ)の櫨(ハゼ)とともに私の好きな景観の一つです。
 京都の人はここを京都御苑と改まった言い方をせず、御所といいます。京都に住む人々にとっては憩いの場所であり、京都を訪れる人々にとっては歴史のロマンを感じさせる貴重な史跡です。しかし、その場所は平安遷都当時のものとは異なります。現在の千本通にその中心があった平安京大内裏は、たび重なる火災と再建を経て、1227年4月の焼失以降は造営されず、しばらくして荒野と化したのです。そのころの天皇は里内裏(実母の実家、ほとんどの場合が藤原摂関家の邸宅)に住むのが常態となっていました。
 京都三大祭りのうち、葵祭(5月15日)と時代祭(10月22日)の二つの行列が、京都御苑内から出発します。京都に住んでいながら、休日でないためもあって私はこの二つの祭りはTVのニュースでしか見たことがありません。春は梅林、桃林、近衛邸跡の枝垂れ桜が知られています。
 近くには足利義光の建てた相国寺や紫式部ゆかりの廬山寺(ロザンジ)がある。駐車場は烏丸通側(西)と寺町通(東)に二箇所あるので、ここに車を止めて散策されるのがいい。西側の駐車場は広い(250台収容)、3時間まで500円。
 西側の駐車場近くにあの蛤御門の変で知られる蛤御門がある。よく見ると御門にはこのときの弾痕が残っている。
 蛤御門から御苑内に入ると、すぐ右手が枇杷殿の遺址である。今は皇宮警察本部敷地内になっている。
 この辺りを徘徊して平安京を偲ぶのもまたいい。枇杷殿といえば、寛弘七年、一条天皇がここを御所とし、紫式部もここで宮仕えをしていたところである。同じ時期に清少納言もここで過ごしている。
  枇杷殿跡には桃林、梅林がある。春の花の咲く頃、梅林の間道をゆくと甘い梅の香りに包まれる。
 今(2月初旬)はまだ三分咲きといったところだが、深閑とした空気の中を歩いていると別天地のような心地さえしてくる。静寂で詩情が溢れていると言ったら言い過ぎだろうか。
 梅林から出水の小川を過ぎ、九条邸跡を通り過ぎると丸太町通に出る。 この九条邸跡が拾翠亭として一般に公開されている。3月から12月までの毎週金・土曜に参観料100円で入れる。庭にはサルスベリやモミジの木が植えられ、池面にはアオサギやアイガモが目を楽しませてくれる。 

 〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑  
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2015年05月23日

善峰寺


 西国三十三箇所巡りの第20番札所。 天然記念物の遊龍松は、寺を再興した徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の手植えの松。 重要文化財の多宝塔と経堂を囲むように、西北に長く枝が延びている。
 阪急の東向町駅より阪急バスで小塩(十輪寺前)まで行き、ここからつま先上がりの坂を善峰寺まで40分くらい歩く。 最後に長い石段を登る。  私は小塩から徒歩で登ってが、この努力は薬師寺の前(海抜350m)からの眺望によって報われた。
 途中に三鈷寺への山道があり、ここから三鈷寺を経由して善峰寺北門から行くこともできるが、この坂も険しいので、石段を登ることをお勧めする。
 阪急の東向町駅またはJR向日町駅からタクシーで坂の上まで行くことも出来るし、車でも行ける(駐車場有)。
 左の写真は阿弥陀堂への石畳の坂道。登りきったところに阿弥陀堂があり、左手には書院がある。
  奥の院薬師堂の前からの眺望。 正面遠景に比叡山が見えているのだが、この日は霞がかかっていて薄っすらとしか写っていないのが残念である。 眼下に京都の町並みが一望できる。正面に御所、相国寺、右手には京都駅前の京都タワーも見渡せる。 薬師如来は、毎日この絶景を眺めておられるのである。
 薬師堂へ続く石段脇には秋明菊がたくさん咲いていた。 秋明菊は別名を貴船菊とも言うが、近頃は貴船では見られなくなった花だが、ここでは寺のあちこちに植えられ、9月の終わりから10月の終わり頃まで赤や白の花を咲かせる。
 薬師堂横には桂昌院の献歌碑がある。

   たらちをの 願いをこめし 寺なれば
      われも忘れじ 南無薬師仏
 薬師堂裏の蓮華寿院庭の池の回りにも秋明菊がたくさん咲いていた。
 赤い花はやや見頃を過ぎていたが、白い花は今(10月中頃)が見頃であり、満開であった。
 蓮華寿院庭は昔、青蓮院の宮々が代々、この地で善峰寺の住職された所にして、西山宮又は、御所屋敷と称し、蓮華寿院があったところと云われる。
 善峰寺の開祖は源算上人であり、釈迦堂には上人作の本尊石仏釈迦如来が安置されている。 この釈迦如来像は日本には例のない合掌姿である。 毎月、第二日曜にはお釈迦様のお風呂があり、入浴できる。
 帰りは釈迦堂の前の石段を下りて北門から出て、三鈷寺を廻って山道を降りた。 三鈷寺は修理中であった。 この参道脇で蛇がとぐろを巻いていて、ビックリさせられ、足早に降りた。

 〒610-1133 京都府京都市西京区大原野小塩町1372  
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