2015年05月17日
光明寺の紅葉
西山浄土宗総本山光明寺。ここは、平安末期に源頼朝に仕えて活躍した武将・熊谷直実が建立した寺である。
直実は平氏との一ノ谷の戦いにおいて、敵将・平敦盛を討ち取った。
その後は、息子と同じ16歳の敦盛を討ったことから無常を感じ、それをきっかけとして出家、法然に帰依し、敦盛の菩提をともらった。
このくだりは、平家物語や歌舞伎の「熊谷陣屋」、新渡戸稲造の「武士道」でも語られている。
春は桜、秋は紅葉の景勝地としても知られている。特に紅葉の時期、総門を入って、表参道横の薬医門を経て玄関へ通じる「もみじ参道」は美しい。紅葉寺とも称される。11月下旬頃が見頃となる。
紅葉まつりは毎年、11月15日・16日に行われる。
写真(2004年)はもみじ参道の紅葉。他より見頃が遅いところだ。
〒617-0811 京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1
2015年05月17日
愛宕神社
愛宕山上にある旧府社。祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)等。防火の神として各地の愛宕社の根本社。愛宕権現。
清滝の登り口から、月輪寺の方からだと約7km。表参道の方からなら約4km。私は、月輪寺へ寄りたかったので、7kmの山道を登った。かなり急勾配なところもあり、何度か途中で引き返したくなったが、せっかく月輪寺まで来たのだからと我を励まして山頂まで登り切った。
京都の中学校や高校では、伝統的に?1度は愛宕さんへ学校から歩いて登ることになっている。(全ての学校がというわけではないが) 幸か不幸か私は京都の学校ではなかったので、今回がはじめてであった。
途中でトレーニング・ウェアを着て、駆け上がっていく人に出会ったが、昔、清滝の登り口の近くに映画俳優の千葉真一の道場があったらしい。阪神タイガースが優勝した年は、ここがキャンプ地だったそうだ。 ここは、比叡山のように車で登ることはできない。
写真は、表参道を山頂から少し下った辺りの見晴らしのいい場所から眺めた京都の街である。
明智光秀は、本能寺を奇襲する前に、ここ愛宕山へ亀山城から、わずかの従者を連れて登り、勝軍地蔵に戦勝を祈願している。
〒616-8458 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
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2015年05月17日
高山寺とミツバツツジ
国宝石水院は、鎌倉時代初期の寝殿造りの面影を残す貴重な遺構である。鳥獣戯画4巻(国宝)など文化財の宝庫でもある。
私が訪れたのは4月中旬頃だったので、石水院の庭にはシャクナゲがたくさん咲いていた。また、ここまで来るまでの車窓からは、ミツバツツジの群生しているのが見られた。
秋は紅葉の名所でもある。栂尾山と号する真言宗の寺であり、光仁天皇の勅願によって開創され、1206年に後鳥羽上皇の院宣によって明恵上人が再興し、寺名を高山寺と改めた。 広い境内には石水院の他に開山堂、金堂などが立ち並んでいる。
石水院は後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。 境内には茶園があり、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したと云われている。
この由緒から、毎年11月8日には宇治茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。 境内を歩くと老松や杉の古木、北山杉、カエデなどが覆い、昼なお暗い深山の趣きがある。
〒616-8295京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
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2015年05月17日
神護寺の紅葉
809年から14年間、空海が住持として活躍した。薬師如来立像と五大虚空蔵菩薩像は、貞観時代の密教彫刻の傑作と云われる。
紅葉の名所であり、近くには西明寺、高山寺もある。 11月中旬以降下旬までが見頃だが、シーズン中は駐車場も満車になるので、バスで行くか、少し朝早く行けば駐車もできる。
駐車場から神護寺までは紅葉した参道を20分くらい登る。紅葉は誠に美しい。東福寺や永観堂もいいが、やはり高尾の紅葉は格別である。 写真は大師堂(弘法大師住房跡)。空海は長安(中国の都)から、持ち帰った密教の教えを、ここから弘めた。
最澄と空海が共に活躍の場としたところでもある。ここで最澄は空海から密教の勧請を受けた。
面授(人から人へ直接伝える)ではなく、空海の持ち帰った密教の経典を借り受けて、書物によって密教を理解しようとした最澄に、天才空海は冷ややかであった。
木々の緑におおわれて、楓とその色を競うように建っているのは和気公霊廟。その昔、ここは高尾山寺と称する和気氏の私寺であった。
ここへ和気氏が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を招いて彼らの活躍の場とした。
空海はここで十四年間住持し、後に東寺(官寺)を嵯峨天皇から与えられる。
その後、官寺では思うようにならなかったのか、私寺として高野山を開く。そこはかって空海が訪れた長安の都を彷彿とさせた。
地蔵院の庭からは渓谷、錦雲渓が一望できる。 ここから素焼きの皿を投げる 「かわらけ投げ」 が有名である。 眼下には錦織なす清滝川がゆるやかに流れているのが見える。 地蔵院の近くの茶店の脇には白い山茶花が咲いていた。
残念ながら、ここでは書の達人として名高い天才空海のその書を見ることは叶わない。
〒616-8292 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5
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2015年05月17日
愛宕念仏寺 (おたぎねんぶつじ)
称徳天皇(764~770年)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されたのが始まりだという。
平安朝の初めには、東寺に属していたが、鴨川の洪水によって堂宇が流失したため、天台宗の僧・阿闍梨伝燈大法師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興された。
今ある場所は愛宕山の麓、清滝へ通じるトンネルの手前である。大正十一年に東山の松原通り弓矢町から堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係からここへ移築された。
千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれ、両親の信仰の厚かった千手観音にあやかり幼名・千観丸と名付けられた。千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めたとある。(寺伝)
重要文化財に指定されている千観内供の木造がある。内供とは皇居に参内を許された僧位。
千観は空也上人を慕って身を捨て、浄土教に転向し、天皇、貴族に仕える僧ではなく、民衆のために働く乞食僧になった。後に親鸞や一遍に受け継がれることとなる「和讃」(解りやすく信仰の教えを詩にしたもの)を作って、浄土教を民衆に普及した。
境内には千二百体の羅漢の石像があり、その豊かな表情は訪れる人々の心を和ませてくれる。
現在の住職である西村公朝師は東京美術学校の彫刻科を出て、保存技術の教授を務められた彫刻家であり、画家でもある。
千観は「笑仏」と言われた。その影響からか一般の人達が作った千躰の羅漢像も皆、朗らかな笑みを湛えている。
〒616-8439 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2−5
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2015年05月10日
常寂光寺
寺名は常寂光土(法身仏の住む浄土)に遊ぶような趣があるという意味。 その名の通り、全山を覆う紅葉と、その中に浮かぶ茅葺きの仁王門が美しい。
1596年に日禎上人が角倉了以らから土地を与えられて創建したという。 「軒端の寺」ともいい、小倉百人一首を選んだ藤原定家の「時雨亭」がこの辺りだったとも云われる。
写真は仁王門を階段の上から見下ろしたところ。
仁王門は、もと本圀寺客殿の南門だったものを移築したとされる。(南北朝時代の建立) 仁王像は丈七尺(約2m)あり、若狭小浜の長源寺より移したもので、運慶作と伝えられる。
少し登ったところに多宝塔がある。 小倉山からの眺めは美しく、京都の町並みが衣笠山、双ヶ丘、大文字山を背にして見える。
遠くには比叡山も霞んで見えている。
春はミツバツツジが境内のあちらこちらに咲いて、色を添えている。 休憩所では住職が育てたボタンの花や野の花が目を楽しませてくれる。 近くには芭蕉も何度か訪れたことのある洛柿舎がある。
嵐山から清涼寺、常寂光院、二尊院、祇王寺、化野へと続く道は、春ともなるとハイカーや観光客も多いが、道端や野に色とりどりの花が咲く。 青々とした山には野生のツツジや藤の花が色を添えている。
〒616-8397京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
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2015年05月10日
宝筺院の紅葉
善入山と号する臨済宗の寺である。平安時代に白河天皇の勅願により創建された。南北朝時代に夢窓疎石の高弟黙庵が復興した。
後に、室町幕府二代将軍足利義詮の没後、その院号宝筺院に因んで寺名が改められた。
境内奥に楠木正行(正成の子)の首塚である五輪石塔と義詮の墓である宝筺印塔が並んでいる。
近くには清凉寺や二尊院があり、秋の紅葉が美しい。10月下旬に訪れたのだが、紅葉を見るなら11月中旬から下旬がいい。
庭園は回遊式になっていて本堂裏から、宝筺印塔へ小道が続いており、裏(西側)は竹やぶになっている。 小道脇に山茶花の白い花が咲いていました。
左手奥に楠木正行の首塚と義詮の墓である宝筺印塔が石の柵に囲まれて立っている。
正行は四条畷の合戦で高師尚の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼によりこの寺に葬った。後にこの話を聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。義詮は38歳で没した。
〒616-8424 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9
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2015年05月10日
二尊院
「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ばれるが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」という。
嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が開山したと云われている。(834~847年)
総門は豪商角倉了以が、伏見城の「薬医門」を移築したもので、参道は紅葉の馬場といわれ、秋には紅葉の美しいところです。
3月には参道の坂を登り切ったあたりに沈丁花の花が咲きます。 今日は沈丁花の花を求めて何度目かの訪問をしてきました。
本堂の前の庭にはもう少しすると(4月中旬頃から5月初旬にかけて)ハナミズキや山吹の花が咲きます。
参道の紅葉は見事です。一度は紅葉の時期に来られることをお勧めしますが、紅葉シーズンの嵐山から小倉山あたりは観光客が大勢訪れるため、まるで町中の雑踏を歩いてような感じさえするときがあります。
それと比べて新緑の頃は人も疎らで、のんびりと青々としたもみじの下を歩くことができるので、私はこの時期の方が好きです。
沈丁花の咲く今の季節は参道のもみじは葉をすっかり落としていて、寂しいばかりなので、写真は昨年の4月下旬に撮ったものを載せました。
六年間の修行期間を終えた法然が比叡山を降りて行脚に出た頃、京都では「保元の乱」が起こっていた。待賢門院を母に同じ血を分けた崇徳上皇と後白河天皇の両勢力がぶつかって、保元の乱が起きた。平氏は忠正が上皇方、甥の清盛が天皇方、源氏は為義が上皇方、子の義朝が天皇方について、肉親が敵味方に分かれて兵刃を交えたと云うのだから、醜い戦いであったと云うほかない。そんな京都市中を抜けて、法然は一人ここ嵯峨の華台寺をめざしたが、その頃の華台寺は荒れ放題になっていたらしい。
本堂脇の急な石段を登り切ったところに法然の廟があり、そこを左に行くと時雨亭跡(小倉百人一首選定の地と云われる)であり、右に行くと三帝陵(土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇)である。
法然はここ華台寺から奈良へ向かう。行脚の途中、各宗派の学匠と法論を交わす。法然は今で言えば大学の教授のような人であった。奈良からここ華台寺へ帰った法然は、少しして叡山の黒谷へ戻ることになる。
黒谷にこもって一切経を読むこと十数年と伝記にはあるが、一切経とは五千四十八巻から成る漢訳仏教聖典の集成である。
小倉山を背景に建つ本堂は京都御所の紫宸殿を模して造られているという。向かって右側が現世の悩みを取り去る釈迦如来、左があの世の極楽へ迎え入れる阿弥陀如来が祀られ、現世来世を見守っている。
〒616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
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2015年05月10日
祇王寺
京福電車の嵐山駅を出て、前の道を右へ途中JRの踏切を渡ってまっすぐ行くと清凉寺の仁王門に突き当たる。そこを左に曲がって清凉寺の壁沿いに進むと角にあるのが宝筺院、道なりに西の方角へ歩くと二尊院、そこからさらに歩いて小倉山麓の祇王寺に辿り着く。
庭は苔が一面に生えていて、楓が庭を覆うように枝を伸ばしている。
ここは平家物語ゆかりの尼寺であり、平清盛の寵愛を失った白拍子(平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを歌い舞う遊女) の祇王が隠棲した場所として知られる。後に、祇王に代わって清盛に仕えていた仏御前もここを訪れ、共に出家したという。
ささやかな本堂には祇王と仏御前、祇王の母刀自、妹の祇女、それに清盛の木造が安置されている。
訪れる季節は秋の紅葉の時期(11月中旬から下旬)がいい。落葉の散り敷かれた庭が美しい。
五十年の夢とりどりの落ち葉かな
智照尼
小春日和に嵯峨野の史跡を散策するのは、いいものである。祇王寺を過ぎて、さらに歩くと化野念仏寺がある。 戻って柿落舎、常寂光寺も紅葉が美しい。
〒616-8435京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
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2015年05月10日
薬師寺
珍皇寺の井戸から小野篁(おののたかむら)が冥界へ通っていたという話があるが、帰りは嵯峨野の大覚寺前の六道町にあった井戸から出てきたという。大覚寺前にあった福正寺がそれであるが、今はなくなり、清涼寺の境内にあるここ薬師寺に合併された。
小野篁というとあの小野小町の祖にあたる人である。 官僚であった篁は夜な夜な珍皇寺の井戸から冥界へ通い、閻魔王に代わって、地獄行き、極楽行きを冥府の法廷で決めていたというのである。
薬師寺は清涼寺境内の西、ちょうど狂言堂の前にある。私が訪れた日は、狂言堂で狂言の稽古が行われているところであった。中には子供達もいて、熱心に無言劇を演じていた。
念仏狂言は毎年、狂言堂にて3月15日と4月(日は年によって変わる)に行われる。
帰ってくる井戸だからか生の井戸(六道)と名付けられている。また、帰りの井戸は七つあったらしい。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道ともう一つは仏の世界にそれぞれ通じていたという。この井戸を七体の生六道地蔵菩薩が守っていた。
今も生六道地蔵菩薩と小野篁像はここ薬師寺に安置されている。
これとは別にまだ新しい(見た目に)三体の地蔵さんが門をくぐってすぐのところに祀られている。六道地蔵尊、るり光地蔵尊、夕霧地蔵尊と名付けられていた。
しかし、行きの井戸は開いているのに、帰りの井戸がないとは、どういうこか。福正寺から生六道地蔵菩薩と小野篁像はここへ移されたが、生の井戸は埋め立てられてしまったそうである。もう戻って来ることはできなくなってしまったのである。
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2015年05月10日
清凉寺
嵯峨釈迦堂とも呼ばれる。五台山と号する浄土宗の寺である。もとはこの地に源融の山荘棲霞観があったが、これが後に寺となって棲霞寺と称した。
987年、奝然(チョウネン)上人が愛宕山を中国の五台山に模して大清凉寺を建立しようとして志半ばで没し、弟子の盛算がその遺志を継いで棲霞寺内の釈迦堂をもって清凉寺としたのが起こりである。
法然は長い修行を明けて、二十四歳で比叡山を離れて行脚をする。比叡山を下って華台寺(のちの二尊院)をめざした。そうして華台寺から、ここ釈迦堂へ七日間の夜の参篭をしたと伝わる。
釈迦堂には五台山で修行した奝然が持ち帰った三国伝来という釈迦如来像が安置されている。釈迦堂横に建つ阿弥陀堂。
境内には奝然上人、源融、嵯峨天皇の墓がある。
本堂(釈迦堂)に入って拝観料を払うと渡り廊下の奥の庭(小堀遠州作)も拝観できる。
毎年3月15日には涅槃会とお松明式が行われる。この日と4月には狂言堂にて念仏狂言が行われる。
山門を入って左手奥に聖徳太子殿がある。 山門から聖徳太子殿へ行く間に茶店があり、店の前に出された長椅子に腰掛けて釈迦堂を眺めた。
法然は七日間の参篭の後、奈良を行脚し、黒谷へ戻り一切経を読破する。一切経は漢訳仏教聖典の集成で、五千四十八巻から成る。十数年の月日をかけて五回閲読したと言うのである。ある時は食事も摂らず、たえまなく経典を読んだと云われる。
法然はこの後に回心し、叡山を離れ浄土宗を開くのである。
〒616-8447京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
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2015年05月09日
龍安寺の石庭
石庭の有名な龍安寺です。 写真は桜が満開のときの石庭。
同じ頃、石庭の裏(境内)ではシャクナゲも満開でした。
この寺を建てたのは「応仁の乱」の東軍側であった細川勝元であるが、創建当時はこの石庭はなかったらしい。
石庭にある15の石は、どこから見ても1つ2つは見えないように配置されている。東洋では15は完全を意味し、人間は完全ではないから全部の石は見えないという事らしい。
白砂を敷き詰めた上に15個の石が東から西へ七・五・三に配置された簡潔な構成の枯山水です。
海の景色を表現したとも、虎が子を連れて大河を渡って行く様子を表現しているともいわれています。
本堂の裏に、あの徳川光圀(水戸黄門)が寄進といわれる銭形のつくばいがある。書かれている文字は、中心の口の字を合わせるとそれぞれ吾・唯・足・知と読める。 「吾れ唯だ足るを知る」という禅の格言を図案化した無言の教えである。 物質文化の中にあって、この格言を見ると何か考えさせられるものがあります。
前に来たときは冬の寒い日だったので、境内で航平(次男)と二人で火鉢を囲んで湯豆腐を食べたのですが、今回は夏の暑い日だったので、木陰のベンチに腰掛けて衣笠山の方をしばらく眺めながら涼ませてもらいました。
前回来たときに、杉苔について短い講義を聞かせてくれた庭師のおじいさんを探してみましたが、今回は残念ながら会えませんでした。
〒616-8001 京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
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2015年05月09日
等持院
足利将軍家歴代の菩提所である。 ここの庭は夢窓国師作の三大名園の一つでもある。
ダルマさんの絵の前を通って南庭をひかえた方丈の広縁に出る。そこを静かに歩くと鴬張りの音が快く鳴る。 この方丈は福島正則が妙心寺塔頭海福院から移築した古建築。 庭では若い庭師が杉苔を植えていた。 広縁の突き当たりに見えるのが霊光殿。 霊光殿には足利歴代(十五代)将軍の木像が安置されている。初代将軍足利尊氏公木像を見る。歴史を見る限り政治家としては失格と言わざるを得ないが、私人としては「いい人」であったと伝えられている。確かにこの木像からも人の良さは伝わってくる。 霊光殿の横には尊氏公の墓もある。
西庭(写真)は衣笠山を借景にして・・・と言いたいところだが、これは昔のこと、今は残念ながら立命館の無粋な校舎ビルが見えてしまう。小高いところには茶室清漣亭がひっそりと建っている。
書院に座って眺めると、寒の有楽椿、春先の馬酔木、初夏のさつき、夏至を過ぎればくちなしの花、初秋の芙蓉と四季折々の花が楽しめるそうな。今(5月初旬)はつつじと水仙が咲いていた。
しばらく世事を忘れて眺めていたくなるのは私だけではなかろう。 庭へ降りて心字池の回りを散策することができる。
〒603-8346 京都府京都市北区等持院北町63
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2015年05月09日
三宝寺・御車返しの桜
金映山と号する日蓮宗の寺院である。 1629年に今出川(菊亭)経季(ツネスエ)が後水尾上皇の内旨を得て、中正院日護上人を開山として創建された。
千宗旦(利休の孫)の四天王の一人であり、赤穂義士・大高源吾を助けたことで知られる山田宗偏が東谷に茶室「四方庵」を建て、茶道の奥義を究めたと云われている。
本堂には釈迦如来像、千体釈迦仏堂には半丈六釈迦坐像が安置され、ともに日護上人の作と伝えられている。
境内には、仁孝天皇皇子常寂光院の墓をはじめ、豊臣秀頼、国松丸、淀君の供養塔等がある。
また境内には、今出川邸より移植した「御車返しの桜」(ヤマザクラ)があり、春には一重と八重の花が混ざり合って咲く。
冬(12月上旬)には「大根焚き」が行われ、「中風封じ祈祷」をした大根とおあげを焚いたものがふるまわれる。
年に何度か寺の主催する句会「稠林」もある。
〒616-8256 京都府京都市右京区鳴滝松本町32
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2015年05月06日
仁和寺・御室桜
仁和寺は宇多天皇の創建。 御室御所とも呼ばれる。 写真は北庭。 奥に見えるのが五重塔です。
二王門を入ってすぐ左側に神殿があり、この中に黒書院、白書院、霊明殿そして北庭と南庭がある。
仁和寺の御室桜が京都では一番遅咲きの桜です。
〒616-8092 京都府京都市右京区御室大内33
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2015年05月06日
遍照寺と広沢池
遍照寺は、987年に花山天皇の御願により、宇多天皇の孫にあたる僧寛朝が広沢池の北西及び西側一帯に創建したものであり、広沢池はこの創建時に池の南側を堰止めて造られたと伝えられている。
かっては大覚寺と隣接して壮大な伽藍を構えていたが、応仁の乱により衰退し、その後、江戸時代の寛永年間に嵯峨広沢西裏町に再建されて現在に至っている。 現在は当時の面影はなく、こぢんまりした一宇になっている。
平安中期の仏師定朝の父であり、師であった康尚の作とされる重要文化財の本尊十一面観音立像と不動明王座像が安置されている。
遍照寺は仁和寺と大覚寺という巨大な寺院に挟まれて建っていた。これが、そもそもの衰退の原因ではなかったか。
広沢池は、古くから月の名所として有名で、多くの歌人によって数多くの歌が詠まれている。
いにしへの人は汀に影たえて
月のみ澄める広沢の池
源三位頼政
今は釣りは禁じられているがコイやフナ、モロコなどが生息している。 鳥はカイツブリ、アオサギ、オオヨシキリなどが見られる。
〒616-8306 京都府京都市右京区嵯峨広沢西裏町14
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2015年05月06日
大覚寺と大沢の池
嵯峨天皇の離宮跡を寺に改めた門跡寺院。 南北朝時代には南朝の御所となり、ここで半世紀におよぶ南北朝戦乱の時代に終止符が打たれた。 方法の如何はどうであれ、南北朝を統一したのは時の将軍足利義満であった。 この後、彼は「天皇になろう」としたのであるが、これは果せなかった。
写真は大覚寺から見た大沢の池。昔の人は、ここから空に浮かぶ月ではなく、大沢の池に映る月を愛でたと云う。
ここ大覚寺は嵯峨御所と呼ばれるが、大沢の池を別にすれば京都御所と雰囲気は似ている。
日本の歴史を語るとき天皇制を抜きには語れないが、近代化に伴い失われていった風景の中で歴代の天皇達が残してくれた遺産(御所の跡)はその勢いを止める堰となってくれている。 春は桜、秋は嵯峨菊が観賞できる。
平安時代きっての知識人であった嵯峨天皇が中国の洞庭湖をイメージして、このような途方もなく大きな池を作った。 つまり人口の池なのである。 庭が先に出来たので、これを眺めるために離宮を造ったと言っても過言ではない。
ひともとと おもいし菊を おほさわの
池のそこにも たれかうえけん
紀友則は古今和歌集の撰者の一人。
大覚寺へ来られた時は、是非大沢の池へも立ち寄られることをお勧めする。 古今和歌集の単行本でも持って、否好きな詩集でもいいから、この風景の中で座って読まれるとよい。
〒616-8411 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
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2015年05月06日
春光院
1590年に豊臣秀吉の家臣、堀尾吉晴が長子金助忠氏の菩提を弔うため建立した堀尾家の菩提寺である。
方丈には、京狩野派として活躍した江戸後期の絵師・狩野永岳の筆による「月と雁図」、「琴棋書画図」、「花鳥図」などが描かれており、これを間近に見ることができる。
方丈前庭は、江戸後期作庭。「さざれ石の庭」(写真)と呼ばれ、白砂ではなく、小さないろいろな色の石が敷き詰められているところから、そう呼ばれている。伊勢両宮を表現した、寺院の庭に神道式の庭という非常に珍しい枯山水庭園となっている。
西庭は「常盤の庭」と呼ばれ、雪見灯籠を配した鶴亀の庭となっており、亀島あたりに桃山期当時の面影をとどめている。
方丈東にある1577年の年号を鋳込んだ南蛮寺の鐘(重文)は、 もと京都四条にあったとされる南蛮寺の銅鐘。初期キリスト教伝来の貴重な遺産とされる。
〒616-8035 京都府京都市右京区花園妙心寺町42
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2015年05月06日
大通院
開祖は妙心寺五十八世南化玄興(ナンカゲンコウ)定慧円明国師。1586年創建。二世の湘南宗化(ショウナンソウカ)大航普済禅師は山内一豊・千代の子であり、以後山内家の菩提所となっている。
山門から真っ直ぐな長い道が墓所まで伸びている。墓所の正面に宝形造の霊屋があり、ここに山内一豊夫妻の卵塔の墓石と位牌、肖像画が並んで祀られている。
山内一豊は信長、秀吉、家康と三代に仕えた戦国武将であるが才覚者ではなかった。妻千代は「内助の功」で夫を支えた賢夫人として知られる。
山内夫妻といえば、今は(2006年)NHKの大河ドラマ「功名が辻」(司馬遼太郎作)の主人公といった方が通じるかもしれない。
山内家には姫が一人いたが、男子はいない。その一人娘も天正地震のとき長浜で亡くしている。この姫の菩提を弔うために妙心寺に塔頭を建てた。
だから湘南和尚は実の子ではない。これも長浜時代に、門前に捨てられていた子を千代が引き取って育てたのである。
千代は湘南和尚が十歳のとき仏門に入れた。戦乱の世に武士として育つよりは、学僧として長生きさせたかったのかもしれない。
〒602-0898京都府京都市上京区上立売通烏丸東入相国寺門前町701
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2015年05月05日
大法院
長姫(真田幸村の兄信之の長子信吉の長女)が建てたとされる塔頭であるが、この祖父信之の法名「大法院」を院号としたとされる。
ここはいつも連休中(5月初旬)に新緑の特別拝観と銘打って、公開されている。 私は、これで3度目の拝観である。
庭の南東に茶室があり、向かい側には待合いがある。機能的に構成された庭になっている。
庭を見ながらお茶と茶菓子を頂くことができる(拝観料に含まれる)。
のちに光国院の梁南禅棟が中興し、このとき盛徳院と併合した。これにより徳川家康の長女亀姫像「盛徳院殿像」が所蔵されている。本堂(方丈)内陣に盛徳院殿位牌等、徳川家の葵紋を装飾してあるのは、その因縁である。
本堂の襖絵に土方稻領(トウレイ)画の叭叭鳥図(ハハチョウ)がある。
叭叭鳥は中国に産し、九官鳥の様なものとされる。梅の老木に群がり飛ぶ有様を現している。
「長空鳥任飛」
心境の思うままに自由自在の有様を表現した言葉を画に表わしたものと云われる。
参道にはツツジ、シャクナゲ、シオン等が咲いていた。
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