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2015年06月06日

五条天神


 天神さんというと菅原道真公を祀っていると思われるが、ここは道真公ではなく、少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀っている。海の彼方から来て、大国主命の国造りを援助した神とされる。
 五条天神の脇を通っているのは松原通りであるが、実は秀吉の都改造までは、ここが五条通りであり、清水の参道だった。今は小さな境内しか残っていないが、かってはこの辺りは広大な杜であったらしい。
 今は小さな境内だが、例年大晦日と節分だけは多くの参拝者が集まって、護符・宝船の画を求め、お守りとする。
 今年の大河ドラマ(2005年)は義経であるが、「義経記」によると義経と弁慶が初めて出会った場所が、ここ五条天神の杜の椋の木の下であった。
 通りで、もう一つ話しておかなければならないのは、この社の裏を通っている天使突き抜け通りだ。別にキリスト教のエンジェルとは関係があるわけではない。ただ、昔は広大だった五条天神の杜を突き抜けて開設されたために、こう呼ばれるようになった。
 久しぶりに寄ってみたら、松原通りの松原京極商店街には「弁慶と義経ゆかりの街」と書いた黄色いのぼりが道の両端に賑やかに吊されていた。

 〒600-8459京都府京都市下京区松原西洞院西入天神前351  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月06日

六角堂


 正式な寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開祖は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。  ここは今はオフィス街の一角、烏丸通りから少し入ったところにある。 写真は本堂。 確かに六角形をしている。
 京都の中心部にあるので、ビルの谷間になってしまっている。
 境内にへそ石と呼ばれる石がある。  桓武天皇が京都へ遷都の時(793年)、元の六角堂の所在が道路の中央に当ったので天皇が遷座を祈願し、御堂を五丈ばかり北へ移設。この石はその際に取り残された礎石であると伝えられている。
  親鸞上人がこの寺に百ヶ日間参篭して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
 二十代前半の頃、親鸞には恵信尼(エシンニ)という恋人がいた。後に妻となる人であったが、釈迦の決めた戒律では僧侶は結婚してはならない。しかし、彼女を愛している。この矛盾に悩み (通説ではそうとも言われているが菩薩僧になれなかったのが本当のところではないか) 十二年間修行を積んだ叡山を下り、この六角堂で百日間参篭した。この時、親鸞の夢に聖徳太子が現れ霊告を受け法然の門弟となる。
 霊告にて聖徳太子の姿をした観音菩薩は、自らの祈願を述べ偈を誦し、願いの趣旨を人々に説き聞かせよと親鸞に命じた。
  本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くの生け花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名、現在も池坊華道の拠点となっている。
 八代将軍足利義政の時代には、床の間には必ず立て花を飾るようになり、同朋衆の中にもそれを専門とする人が現れた。立阿弥、文阿弥という名が立て花の名人として伝えられている。
 1462年に当寺池坊の専慶が佐々木高秀の招きを受け、金瓶を花器として用い種々の草花を活けたところ、洛中の大評判となって見物人がひきもきらなかったと史料「碧山日録」にある。

 〒604-8134 京都府京都市中京区六角町東洞院西入堂之前248  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月06日

錦天満宮


 錦の天神さんとして古くから親しまれている。参道の鳥居は両脇のビルに突っ込んでいる。神社の前は新京極の繁華街と接しているので、人通りは絶えない。
 参道を真っ直ぐ行くと錦市場である。ここへ行けばたいがいのものは売っている。私も仕事で近くを通って帰るときは、ここへ寄って酒の肴などを買って帰ることがある。
 幼い頃、母に連れられて買い物のお供を何度かした記憶があるせいか、親しみのある商店街だ。
 錦通りは平安時代には幅員12メートルもあり錦小路と呼ばれたが、今は3メートル程しかないうえに、観光客も押し寄せるので、いつも混雑している。
 江戸時代の頃から、通りに魚だな、青物市場が造られ、公認の食品市場が形成されていったという。
 もちろんここも天神さんだから、牛と梅、そして菅原道真公が祀られている。
 境内にある井戸には「京の名水」(にしきのみず)が今でも湧き出ていて、ペットボトルで汲みに来る人も多い。
 平安時代は洛中にあったが、豊臣秀吉による都市計画により、現在の地に移された。2月下旬に訪れたのだが、境内には紅白の梅の花が咲いていた。

 〒604-8042 京都府京都市中京区新京極通四条上中之町537  
タグ :洛中


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2015年06月06日

瑞泉寺


 寺名は豊臣秀次の法名瑞泉院にちなんで付けられた。秀次らの菩提を弔うために、この寺を建てたのは高瀬川を開削した京都の豪商角倉了以である。
 秀次切腹の後、妻子ら三十九人の処刑が秀吉の命によって三条河原で行われ、遺体はその場に埋められ、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が置かれた。
 これが後の鴨川の洪水で壊れ、遺骨が散乱する事態となり、これを集めて墓所とされたのが瑞泉寺である。処刑は公開で行われ、三条大橋は見物衆で溢れた。
 諸説あるが、秀次は犠牲者だったと思える。幼い頃から、叔父秀吉の政略に利用され、その後、秀吉に子がなかったため、養子となって若くして関白にまでなった。
 しかし、その後、秀吉に実子秀頼が生まれたため、謀反の疑いを掛けられ、二十八歳の若さで切腹させられたのである。母が秀吉の姉でなければ、平凡な百姓として長生きしたかもしれない。
 寺は繁華街の一角にある。私も何度もこの前を通っているのだが、今回寺内に入ったのは初めてだった。境内には秀次の墓所とこれを囲むようにその妻子らの墓が並んでいた。その脇に椿の花が咲いていた。
 諸説の中に、秀次が学問好きであり、学問の保護と奨励者であったという説がある。また、暴君であり殺生関白とも言われているが、どうもこれは創作であるように思える。
 今回、秀次についての資料を読み漁る内に、秀次が城主であった近江の八幡山城へも行ってみたくなった。

 〒604-8002京都府京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114−1  
タグ :洛中


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2015年06月06日

本能寺


 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀の謀反により自害した「本能寺の変」を思い出す人が多いでしょう。
 しかし、「本能寺の変」で信長は自刃するとき、女性や御坊を逃がし寺に火を放ったので、焼失しています。
 今は何度かの再建により、場所も移され、河原町御池の繁華街の近くに建っている。
 境内に宝物館があり、寺の宝物や信長の遺品などが所蔵、展示されている。
 信長は晩年、権力を手にするために自己を神格化しようとした。つまり神になろうとした。宗教勢力との戦いから学んだのか、これもまた信長の政治宣伝だったのかはわからないが、後を継承した秀吉も家康もこれに習っている。 信長を祀った安土城は焼けてしまったが、後に明治天皇が船岡山に建勲神社を建て、信長を祀った。
 信長は宗教勢力を弾圧したわけではない。ただ、信長の正義としては、宗教家が人をだましたり、宗教団体が武力を持って勢力を拡大したりするのが許せなかったのである。
 今でこそ、日本人は無宗教だと言われるが、信長が生きた時代は狂信の徒が宗教の違いによって、殺し合いをしていた。四百年前に信長が、そうした宗教勢力を皆殺しにしていなければ、日本も政教分離に未だに悩んでいたかもしれない。そう思うと信長の功績は大きい。和の国であった日本が一時的に、戦国の世になったのも、旧来の政治、社会秩序、宗教等が行き詰まっていたからであり、それを信長は一掃してくれたのである。 現在の日本も同じような閉塞状態にあるが、現代の信長は現れるのだろうか。否、我々一人一人の改革が必要なのかも知れない。
  境内の奥には信長の供養塔がある。  信長の墓や供養塔は京都市内だけでも3、4ヶ所ある。本能寺の変で寺といっしょに信長は焼けているので、遺骨はみつかっていない。だから、どの寺(墓)にも遺骨は埋葬されていない。
 ただ、阿弥陀寺には遺灰が清玉によって持ち帰られたと言われているが、あそこも何度か移転しているので、今も残っているかは定かではない。
  「本能寺の変」当時は四条西洞院にあり、30余坊を構える大寺院だった。
 今はこのあたりは小学校や町屋になっていて、小学校の正門横に本能寺跡の石碑が建てられている。
 最近(2002年12月下旬)、通りかかったら、校舎を新しく立て替えるらしく、その前の発掘調査が行われていた。

 京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園