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2015年06月07日

晴明神社


 神社の由緒書によると、安倍晴明公の邸跡に1007年、一条天皇が公の偉業を讃え、また御鎮霊の勅旨をもって創建されたとある。
 近年、小説、漫画等に取上げられ、映画にもなったことで、再び注目を集めている「安部晴明」であるが、このブームの御陰で神社も新しく増改築された。神社の前の土産物店では「陰陽師グッズ」などが売られている。
 今はちょうど京都文化博物館にて「安倍晴明展」が催されている。(2003年7月12日~8月17日) 私も見てきたが、なかなか面白かった。 最近、TVで放映されていた映画の方も見たが、興味ある人物である。
 安倍晴明という陰陽師は、今から千年の昔、朝廷に仕え、優れた才能により、安倍家を賀茂家と並ぶ陰陽師の家に押し上げた。 陰陽道とは、暦学や天文学の知識を生かして、呪いや占い、祭などをする宗教とされ、中国の陰陽、五行思想を取り入れて、平安時代に日本で成立した。
 明治維新後、政府によって禁じられてからは、庶民の習慣や行事として、暮らしの中に伝わってきた。
 身近なところでは、暦の六輝(先勝、友引・・・)や節分、ひな祭、茅の輪くぐりなどがある。
 例祭及び神幸祭は例年9月の秋分の日に賑やかに行われる。

 〒602-8222 京都府京都市上京区堀川通一条上ル−806  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月07日

白峯神社の闘魂守


 明治天皇は即位の前に、讃岐(香川県)の白峰(坂出市)にある崇徳天皇陵へ勅使を送り、ここ京都の白峯神社へ神霊を帰還させた。
 崇徳天皇と言えば、平安朝末期に保元の乱を起こして失敗し、讃岐へ配流された人である。しかも、「皇を取って民となし、民を皇となす」、つまり天皇制をつぶすぞと言って死んだ人である。そのタタリは、源平盛衰記にも書かれたように現実となり、平安朝は衰退し、平家の時代、そして源頼朝による鎌倉幕府の時代となる。
 明治天皇が即位した時期の日本の状勢は、幕府の権威が失墜し、朝廷が再び政治の中心に組み込まれようとしていた。
 大政奉還、王政復古、天皇親政、そして天皇の神格化へと突き進んでいった。
 明治天皇は、崇徳天皇だけではなく、後にもう一人の天皇、淳仁天皇を合祀している。
 淳仁天皇もまた、称徳女帝に廃されて淡路島へ配流、非業のうちに亡くなっている。 つまりタタリを為すと思われていた。
 この白峯神社の地は、元は公家の飛鳥井氏の邸宅があったところと云われている。 飛鳥井氏は蹴鞠と和歌の宗家であり、その氏神である精大明神が、崇徳天皇の脇に祀られている。
 片方はタタリを恐れられ、これを鎮めて祀ることによって、善なる神に転化した御霊。もう一方は鞠の守護神だと言う。
 精大明神、近年は球技一般・スポーツの守護神として、参拝する人が多いという。「闘魂守」なる御守も売られている。
 例祭としては、4月14日に行われる淳仁天皇祭、七夕(7月7日)に行われる七夕祭、9月21日に行われる崇徳天皇祭などがある。 七夕には蹴鞠奉納や小町踊りの奉納があり、崇徳天皇祭には薪能が奉納される。
 神社は今出川通りに面しているが、例祭以外の日は、境内に一歩足を踏み入れれば、そこには、ひっそりとした空間が広がっている。

 〒602-0054京都府京都市上京区今出川堀川東入飛鳥井261  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月07日

達磨寺


  臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれている。1727年に大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 つまり禅寺だが、僧侶ではなく室町の両替商(荒木)によって勧進された庶民的なお寺である。
 三国一を称する起上がり達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ一万余を祀る達磨堂は特に有名である。いたる所に達磨のオブジェがある。
 親戚の家が近くにあるので、節分に行ったことがあるが、大勢の参詣者でにぎわっていたのを覚えている。 確かお守りと小さな達磨を買って帰った。 その時写した達磨寺の庭の写真を探したが、整理が悪くて見つからなかった。 そこで秋の日に前を通りかかったときに、黄色いコスモスに目を惹かれて、カメラを向けたときの写真があったので、これを載せることにした。 いつでも行けるという気安さがある。また親戚のうちへ寄った時にでも更新しておきます。 1枚目は、同じ時に写した入り口付近。芙蓉の花が話しかけてきた。
 京都には「通称寺の会」と言うのがある。この寺のように正式名は「法輪寺」だけれど、通称名(達磨寺)の方で通っている寺が宗派を超えて集まって会を作っているのだ。
 他には、例えば秀吉が茶を飲みに立ち寄ったという「茶くれん寺」(浄土院)、「蛸薬師」(永福寺)、「千本ゑんま堂」(引接寺)、「猫寺」(称念寺)、「釘抜きさん」(石像寺)・・・などなど。
 通称寺のフォークロアを聞いて歩くだけでも楽しい。
 確かに「引接寺はどこにありますか」などと問われても京都人は誰もが首をかしげるだろう。
 ここは先に紹介した荒木なる人物が奉安した起上がり相の達磨大使坐像がきっかけで、参拝者が達磨を寄進するようになったので、達磨寺と呼ばれるようになったそうだ。

 〒602-8366 京都府京都市上京区行衛町457  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月07日

松林寺


通称を「やす寺」という。1608年建立。寺域は聚楽第の外堀跡と推定される。
 「やす」は安産の安。開基の清印上人が、「重病の母の回復を祈願した時、薬師如来が現われ、安産や婦人病に効験あらたかな秘薬の処方を伝授された」という説話に由来する。
 場所は智恵光院通出水下ル。龍馬を斬った見廻組の宿舎であったとも伝えられる。
 京都の12月は北山しぐれにふられる季節。晴れているからと、うっかり傘も持たずに出かけると、しぐれにあって濡れ鼠ということになる。西陣の街を歩くのが好きだが、やはり、この日もしぐれていた。傘をさしたり、たたんだりしながら路地を歩くうちに、松林寺の前に来た。山門から本堂まで、なだらかな石段になっている。聚楽第の外堀跡だったと言われれば、そうかと頷けるが、実は後の調査で外堀跡は発見されなかったので、一説には外堀を造っている最中に、秀吉によって、破却された。たった8年間だけ存在した幻のような、そして悲話の纏わる城だった。
 山中醤油店の裏の黒い塀が奥に見える。下立ち売り通りに面した醤油店の表には小さな庭があり、水車が回っている。夏などは、この水車のそばで秋海棠が咲いている。
 今年は年末まで忙しくしていたので、「だいこん焚き」にも行けなかったななどと思いながら、そぞろ歩いていた。近くには平安宮内酒殿跡が発見された場所もある。久しぶりに底冷えのする一日だったので、熱燗でも一杯ひっかけたくなった。

 〒602-8174京都府京都市上京区智恵光院通出水下る分銅町575  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月07日

本隆寺


 法華宗真門流の総本山で、正式には本妙興隆寺と云う。 開祖である日真は、長享2年(1488)に妙顕寺を出て、四条大宮に本隆寺を開創した。後柏原天皇等の支援を得て法運は隆盛するが、天文の法難に遭い、諸堂は悉く消失し、一時泉州堺に避難する。
 平和や人の幸せを求めるはずの宗教が、歴史の中で時として戦争の引き金となってきた。そして古今東西を問わず、多くの人々がその犠牲になっている。京都も同じである。その一つに、天文法華の乱があり、日蓮宗の寺院がことごとく焼け落ちた。現世利益を説いた日蓮宗は、その当時としては異端であった。
 現在地に移転後、享保・天明の大火では本堂・祖師堂・宝庫は奇跡的に残り、俗に不焼寺(やけずのてら)と呼ばれる。
 裏に雨宝院があり、親せきの家も近くにあるので、よく来る寺の一つである。
 祖師堂のそばにある松の木は「夜泣き止め松」(写真)と呼ばれ、五世の日諦上人が養育を頼まれた赤子の夜泣きに困った際、題目を唱えながらこの松の木を回ると泣きやんだという故事からくる。
 春は桜、夏はサルスベリがきれいだ。洛中の寺は皆同じだが、町並みの中に溶け込むように立っている。 というより、寺領を囲むように(残して)町並みがあると言った感じだ。 うっかりしていると見過ごしてしまう。

〒602-8447 京都府京都市上京区智恵光院通五辻上る紋屋町330
  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園