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2015年06月13日

観智院


 教王護国寺(東寺)の子院(塔頭)の第1で、別格本山である。1359年に創建され、杲宝を開基とする。代々、学僧が住し、東寺塔頭の中で最も格式が高い。杲宝・第二世賢宝は膨大な聖教類を南都北嶺から集め、またそれらを書写した。この一万五千点以上にのぼる聖教類は、観智院東南隅の金剛蔵に納められていたことから、観智院金剛蔵聖教と名付けられ、重要文化財に指定されている。これらの膨大な資料は量質ともに最高を誇るもので、はやくから観智院は「一宗の観学院」と呼ばれていた。聖教類の多数は現在は東寺宝物館に収蔵されている。
  入り口を入ってすぐ横の庭。 この廊下を進むと客殿前の庭園に至る。  ここの庭は、春の特別拝観でしか見ることはできないが、東寺へ来れれたら、やはり金堂と講堂へ入って、薬師三尊や空海の構想した立体曼荼羅を見ることをお勧めする。
 その時のために、東寺が作成している十界の資料から拾い読みすると
 如来とは「自らも悟り、また他をも悟らせつつあるもの。自他平等の状態・」 菩薩とは「他と共に悟りを得ようとして願をおこし、修行しているもの。初めて自己を超えた状態。」 縁覚とは「生活の中から独り悟りを見つけ出た状態。生活者。」 声聞とは「教えを聞くことによって真理を学びとろうとしている状態。学生。」 (ここまでが悟) 天とは「勝れた楽を受けるが、なお苦を免れない。求めることはすべて充たされた人間の最高の状態。しかしそこにもなお苦がつきまとう。」 人間とは「堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏の間。人と人の間、生と死の間。」 阿修羅とは「嫉妬心が強く、常に不安がつきまとい戦いばかりやっている状態。」 畜生とは「互いに他を餌食として生長し、自分のことしか見えない状態。」 餓鬼とは「飲食が得られないために苦の止むときがない。欲求不満の状態。」 地獄とは「極苦処ともいう。生きていることすべてが苦であるという状態。」 と書かれている。後の6つを六道という。
 客殿前の庭園(五大の庭)は、弘法大師が唐の長安で密教のすべてを受法し、数々の法具経典と共に帰国の海上で難にあったとき、守護の海神に護られ帰還した姿と、五大虚空蔵菩薩像の姿との、二つの着想から構成されていると云われる。

 〒601-8473 京都府京都市南区九条町403  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月13日

真如院


 日蓮宗大本山本圀寺の元塔頭で、1535年4月、日映上人により創建された。しかし、翌年に本圀寺一山は法難のため焼失してしまう。その後、再興され1560年には、足利十三代将軍義輝が、天下太平の祈願を催した。この祈願の時に、義昭(後の十五代将軍)は、真如院に現在保存されている名石の烏帽子石を移したと記されている。
 その後、1568年に織田信長が義昭を真如院に招いている。名園のあった真如院に義昭を招いたのは政治的な意図があった。義昭は義満(金閣)、義政(銀閣)と同じく大の庭園愛好家であったらしい。この点に着目した信長は、義昭の歓心を買うために、庭園を造らせたのだろう。そして京へ進出するために足利義昭という伝統的な権威を必要とした。
 真如院の庭園の特色は、小判石を鱗形に敷いて、水の流れの小浪を表現しているところである。室町時代の影響を受けながら、桃山初期に創られた庭園である。今は何度かの移転で規模も縮小されてしまっているが、当時はかなり大きな庭園であったらしい。
 義昭は天下人信長がデビューするには必要な人物であった。上洛した後、義昭は信長を副将軍に任命しようとしたが、これを信長は断っている。この時、義昭には「権威」があった。そして信長には「軍事力」があった。もう一つ政権に必要な物「賞罰権」をめぐって駆け引きがこの後行われる。
 二人がこの庭の前に立って、それぞれの思惑を隠して対峙していたのである。  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月13日

壬生寺の狂言


 鑑真和尚の創建と伝わる古刹。  4月21日~29日、10月7日~9日に行われる壬生狂言が名高い。
 狂言の舞台横に植えられたサルスベリの白い花が咲いていた。(2001年7月29日)
 この季節(夏)にはよく見かける花であるが、白い花より赤い(ピンク)花の方が一般的である。
 舞台のすぐ前は保育園になっていて、子供達の明るい声が聞こえていた。
 近くに新撰組の屯所があったので、新撰組の隊士達も手が空いているときは、寺の行事などを手伝うこともあったらしい。
 寺の参道脇には隊士達の墓があり、今でも修学旅行生や若い人達が訪れる。
 新撰組には今の時代が無くしてしまった何かがあり、若者をひきつけるのかもしれない。 新撰組は最後の武士道を突き通した。歴史上から見れば、無駄な行為にも見えるが、憎めない存在である。
  壬生寺の東側に八木家がある。ここは新撰組の寝泊りしたところ(屯所)である。4年程前から一般に公開されるようになった。 西本願寺の屯所へ移るまでの5年間を近藤勇や土方らがここで過ごした。
 芹沢鴨暗殺の際のものと見られる刀傷も残されている。
 屯所といっても、ここは個人(八木家)の私邸であった。 八木家は新撰組とここで寝起きを共にしていたのである。
 近藤勇は握りこぶしを大きな口を開けて口の中にほおばることができたそうである。飲んでいる時の座興として主人らも何度か見たらしい。

 〒604-8821 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月13日

西院春日神社


 西院春日神社は西の大原野神社と東の吉田神社などと共に春日四神を祀る京の春日社の一つである。
 私事になるが、普段は市バスに乗って行くが、時々気が向くと歩いて通勤することがある。そのときはこの神社の境内を通ることにしている。裏から入って表へ出る形になるが、裏の参道には藤棚がある。季節には、その花を見上げて藤棚を潜るのが楽しみの一つである。また、境内には桜や梅の木もある。
 神主が育てたサツキや桔梗、菊など季節々の花を見て通るのも楽しい。
 近くに親戚の家もあるので、祭りを見に出掛ける事もある。十月八日が祭りの日である。ここの祭りも京の祭りの例に違わず、長い行列が静々と優雅に行進するが、中に五基の剣鉾と二基の神輿が混じる。こればかりは威勢がいい。伝統芸と言ってもいい、その鉾差しさんの動きは見ものである。重くて高い鉾を差して(かついで)、鉾の先をぺコンペコンとしならせ、鈴を鳴らすのである。
 春日社ではあるが、ここは藤原氏が建立した神社ではない。淳和天皇の皇女である崇子内親王が疱瘡に罹ったとき、神前の霊石に疱瘡が移って平癒した。この後、この石を病気平癒の神として祀り、淳和帝の死後、その住居跡が社となったとされる。この社には淳和天皇を祀る西院宮があるが、これは住居跡だからではなく、これも京の社によくあるタタリを鎮める意味が込められている。藤原氏の権力争いの巻き添えを食ったのが淳和天皇の子恒貞親王であった。そしてこの鎮魂の祭りが剣鉾と神輿の祭りであるという。

 〒615-0015 京都府京都市右京区西院春日町61  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月13日

旧二条城 (二条新第)


 1569年に織田信長が将軍足利義昭の居館として築いた。今は旧二条城跡とされる二条殿町(まちづくりセンター入口)に石碑だけがある。
 義昭を擁して上洛を果たした後、信長は義昭を本圀寺に置いて一旦、岐阜城へ戻った。そのスキを衝いて三好勢が本圀寺を包囲した。知らせを受けた信長は大雪の中を出陣し、京に駆けつけている。この時は未だ、義昭の権威が必要であった。腐っても鯛といったところか。戻って敵を撃退した信長は城塞を兼ねた新第を造営した。これが二条新第である。
 この二条新第の造営にあたって、諸侯より人手と資材を徴発し、工事現場には常時1万五千人から2万五千人が働いた。また、この工事は公開で行われ、わずか2ヶ月で完成させている。(宣教師フロイスの日本史による) このイベントは信長を天下に知らしめる宣伝効果は十分にあった。 そういった建造物やおそらくあったであろう場内の庭などが今に残っていないのは残念なことである。
 この二条城の公開工事にしてもそうだが、信長が魁となったことは多い。楽市楽座や政教分離などもそうである。
 日本人が今、無宗教だと言われるのも(本当はそうでもないのだが)信長が行った宗教勢力との戦いが一因している。
 この時代の日本人は熱烈な信仰者だった。そして宗教集団が武装していた。政治には妥協がつきものだが、宗教には妥協がない。だから、この時代には宗教の違いによる戦争があった。
写真は京都文化博物館の中庭に展示されている旧二条城(二条新第)の北西の部分と推定される場所(上京区新町通下立売上ル両御霊町)から出土した石仏。
 信長は工事を短期間に終わらせるために、付近の寺院から石仏などを微発し、石垣や石段を築造するのに利用させた。  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園