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2015年06月20日

酬恩庵 (一休寺)


 この寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。 その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当る一休禅師が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。
 一休はここで後半の生涯を送り八十一才で大徳寺の住職に就いた時もこの寺から通い、八十八才にてこの寺で示寂され遺骨は当所に葬られた。  このことから「一休寺」の通称で知られる。 

 〒610-0341 京都府京田辺市薪里ノ内102  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月20日

黄檗(おうばく)の萬福寺


 宇治の黄檗にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。寛文元年創建。開山は隠元。建築様式は明の黄檗山万福寺に模し、法式・風習すべて明制を取り入れている。
 左の写真は総門。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国風の牌楼式を用い、漢門とも呼ばれる。
 この門を入って鍵型になった参道を進むと放生池があり、その前にある三門をくぐると長い参道は天王殿、大雄宝殿、法堂へと続く。
 寺の玄関として設けられた天王殿には四天王と弥勒菩薩、韋駄天が安置されているが、この弥勒菩薩というのが、あの布袋さんである。
 境内に植えられたツツジが花ざかりであった。
 法堂の前では大きな機材を設置して寺の宣伝ポスターの写真でも撮っているようであった。
 会社の先輩の両親がこの辺りに住んでおられ、若い頃、同僚達と訪れたことがあったのを思い出しながら、広い境内を散策して歩いた。
 境内を縦横に走っている参道は、正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものであるらしい。

 〒611-0011 京都府宇治市五ケ庄三番割34  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月20日

平等院


 宇治は景勝の地であり、度々王朝貴族の別荘が造営され、嵯峨天皇の皇子左大臣源融(ミナモトノトオル)が別荘を造り、融の没後は、宇多天皇の別荘となり宇治院と呼ばれた。
 平安時代の中頃に宇多天皇の孫源重信の所領になっていたものを道長が譲り受けて別荘とした。
 その後、道長の嫡男宇治関白藤原頼通(ヨリミチ)によって寺院に改められ、大日如来を本尊として開創された。
 開創当時、天台、真言、密教が盛んで、平等院の初代住職には、天台寺門派の園城寺から長史明尊を迎えた。
 一方、比叡山では恵心僧都源信が出て「往生要集」を著し、浄土教が盛んになり貴族達は自分の寺に本尊として阿弥陀如来を祀るようになってきた。
 このような背景から平等院でも阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂の建立が行われた。これが現存する鳳凰堂であり、お堂は東に面して建てられ池をへだてて西方に極楽浄土があるかの如き情景を現している。
              - 平等院の沿革史より
 三人の娘を天皇の后にして栄華を誇った藤原道長。紫式部はその道長の娘彰子付きの女官であった。世界ではじめて書かれた長編小説「源氏物語」は道長の援助によって書かれたと云われている。
 宇治は源氏物語(五十四帳)の後半の舞台である。これを宇治十帳と呼ぶ。光源氏の死後、次の時代での浮舟と薫、匂宮の話となっている。
 平等院を出て、宇治川を渡った対岸に宇治上神社がある。神社を過ぎて「さわらびの道」を散策すると、その先に源氏物語ミュージアムというのがある。ここでは源氏物語についての資料や映像を見ることができる。
 私もこの日は平等院から宇治川を渡って対岸にある興聖寺を拝観し、宇治上神社、さわらびの道をぬけて源氏物語ミュージアムと宇治を散策した後、駅前からバスに乗って三室戸寺、黄檗の万福寺を回った。

〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月20日

一言寺


  真言宗醍醐派のお寺で、正式名称は金剛王院と言う。通称一言寺と呼ばれる。
 本尊である千手観音に祈れば言下に願いが叶うことから、一言寺の名が起こったと伝えられる。
 「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の御詠歌の額が本堂の軒下に掛かっている。
 寺伝によると高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲の娘「阿波内侍」が出家して「真阿」(シンナ)と名乗り、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝わる。
 本堂は1810年の再建で、江戸時代を代表する建築の一つ。内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいもので、この中に一言観音と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像が安置されている。
  本堂の前に梅の木があり、回りにはシキミが咲いてた。  ここへは法界寺へ来た帰りに「山桃の樹」を見に立ち寄ったが、既に花時を過ぎていた。ここの山桃の樹は京都市の登録天然記念物に指定されている名木である。
 寺は見晴らしのよい丘陵台地上にある。

 〒601-1335京都府京都市伏見区醍醐一言寺裏町3  
タグ :洛南洛外


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2015年06月20日

醍醐寺


 真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖宝・理源大師が874年に醍醐山上に草庵を結び、観音像を彫刻して堂宇に安置したのが始まりとされる。
 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次第に堂塔が建立され、951年には五重塔が完成。
 左の写真は金堂から五重塔を眺めたところ。五重塔は京都府下では最古の建造物である。
 三宝院を拝観する場合は拝観料が必要だが、境内は自由に(無料)散策できる。三宝院内は撮影禁止であった。
 三宝院の庭園は豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自らが基本設計をした庭であり、桃山時代の華やかな雰囲気を伝える。
 山内は三宝院、五重塔等がある下醍醐と、ここから約1時間かけて山道を登ったところにある上醍醐に分かれる。
  秋には三宝院にて毎年大菊花展が催される。  霊宝館では、国宝・重文約4万点、寺宝10万点以上に及ぶ貴重な文化財が保存、展示されている。

 〒601-1325 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園