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2015年06月21日

京都の庭園、移行完了

やっとHPに作成していた「京都の庭園」をこっちへ移行完了しました。
京都へ旅行に来るときに参考にでもして頂ければ幸いです。
タグに「洛北」「洛東」「洛中」・・・も付けておきました。
マップ・リンクも付けています。
  

Posted by koyuki at 07:10Comments(0)京都の庭園

2015年06月21日

常照皇寺の桜


 正式には「大雄名山万寿常照皇禅寺」と云い、略して常照寺とも云われていた。
 南北朝期の北朝の初代上皇であった光厳院が1362年頃に開創した臨済宗京都嵯峨天龍寺派に属する禅寺である。
 光厳天皇はわずか二年で退位され、この帝の数奇な運命も、ご苦労も、この機からはじまる。
 再び都は戦乱となり、探題北条仲時に伴われて近江路を東へ落ちて行かれる途中で、南朝方に捕らえられ、仲時以下四百数十人の郎党は一人残らず自刃して果てる。この時、仲時は十八歳、帝も二十一歳の若さであった。その後も戦乱に巻き込まれ、人質として吉野方面を転々と移された後、河内の金剛寺へ幽閉される。長い忍従の後、剃髪され、一旦は都へ戻られたが、順慶という僧を一人伴って諸国行客の後、山国のここ常照皇寺に籠もられた。
 後花園天皇から境内裏山万樹林や小塩田等を香華料として献納された。桜の木は弟の光明上皇から贈られたものだと云う。その後、皇家と地元檀家が力を合わせて護寺してきた。
 村人からは「光厳さん」と慕われ、明治維新のときは山国隊として、村の勇敢な若者83名が戦った。京北町の山国神社の祭りの日には、今でも勤皇山国隊の行進が保存会によって行われる。
 昔は(白州正子の訪れた頃)、かくれ里のような所だったに違いないが、今は花の季節にはたくさんの人が訪れる観光地になっている。

 〒601-0313 京都府京都市右京区京北井戸町14-6  
タグ :洛南洛外


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年06月20日

酬恩庵 (一休寺)


 この寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。 その後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当る一休禅師が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。
 一休はここで後半の生涯を送り八十一才で大徳寺の住職に就いた時もこの寺から通い、八十八才にてこの寺で示寂され遺骨は当所に葬られた。  このことから「一休寺」の通称で知られる。 

 〒610-0341 京都府京田辺市薪里ノ内102  
タグ :洛南洛外


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2015年06月20日

黄檗(おうばく)の萬福寺


 宇治の黄檗にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。寛文元年創建。開山は隠元。建築様式は明の黄檗山万福寺に模し、法式・風習すべて明制を取り入れている。
 左の写真は総門。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国風の牌楼式を用い、漢門とも呼ばれる。
 この門を入って鍵型になった参道を進むと放生池があり、その前にある三門をくぐると長い参道は天王殿、大雄宝殿、法堂へと続く。
 寺の玄関として設けられた天王殿には四天王と弥勒菩薩、韋駄天が安置されているが、この弥勒菩薩というのが、あの布袋さんである。
 境内に植えられたツツジが花ざかりであった。
 法堂の前では大きな機材を設置して寺の宣伝ポスターの写真でも撮っているようであった。
 会社の先輩の両親がこの辺りに住んでおられ、若い頃、同僚達と訪れたことがあったのを思い出しながら、広い境内を散策して歩いた。
 境内を縦横に走っている参道は、正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものであるらしい。

 〒611-0011 京都府宇治市五ケ庄三番割34  
タグ :洛南洛外


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2015年06月20日

平等院


 宇治は景勝の地であり、度々王朝貴族の別荘が造営され、嵯峨天皇の皇子左大臣源融(ミナモトノトオル)が別荘を造り、融の没後は、宇多天皇の別荘となり宇治院と呼ばれた。
 平安時代の中頃に宇多天皇の孫源重信の所領になっていたものを道長が譲り受けて別荘とした。
 その後、道長の嫡男宇治関白藤原頼通(ヨリミチ)によって寺院に改められ、大日如来を本尊として開創された。
 開創当時、天台、真言、密教が盛んで、平等院の初代住職には、天台寺門派の園城寺から長史明尊を迎えた。
 一方、比叡山では恵心僧都源信が出て「往生要集」を著し、浄土教が盛んになり貴族達は自分の寺に本尊として阿弥陀如来を祀るようになってきた。
 このような背景から平等院でも阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂の建立が行われた。これが現存する鳳凰堂であり、お堂は東に面して建てられ池をへだてて西方に極楽浄土があるかの如き情景を現している。
              - 平等院の沿革史より
 三人の娘を天皇の后にして栄華を誇った藤原道長。紫式部はその道長の娘彰子付きの女官であった。世界ではじめて書かれた長編小説「源氏物語」は道長の援助によって書かれたと云われている。
 宇治は源氏物語(五十四帳)の後半の舞台である。これを宇治十帳と呼ぶ。光源氏の死後、次の時代での浮舟と薫、匂宮の話となっている。
 平等院を出て、宇治川を渡った対岸に宇治上神社がある。神社を過ぎて「さわらびの道」を散策すると、その先に源氏物語ミュージアムというのがある。ここでは源氏物語についての資料や映像を見ることができる。
 私もこの日は平等院から宇治川を渡って対岸にある興聖寺を拝観し、宇治上神社、さわらびの道をぬけて源氏物語ミュージアムと宇治を散策した後、駅前からバスに乗って三室戸寺、黄檗の万福寺を回った。

〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116  
タグ :洛南洛外


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2015年06月20日

一言寺


  真言宗醍醐派のお寺で、正式名称は金剛王院と言う。通称一言寺と呼ばれる。
 本尊である千手観音に祈れば言下に願いが叶うことから、一言寺の名が起こったと伝えられる。
 「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の御詠歌の額が本堂の軒下に掛かっている。
 寺伝によると高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲の娘「阿波内侍」が出家して「真阿」(シンナ)と名乗り、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝わる。
 本堂は1810年の再建で、江戸時代を代表する建築の一つ。内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいもので、この中に一言観音と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像が安置されている。
  本堂の前に梅の木があり、回りにはシキミが咲いてた。  ここへは法界寺へ来た帰りに「山桃の樹」を見に立ち寄ったが、既に花時を過ぎていた。ここの山桃の樹は京都市の登録天然記念物に指定されている名木である。
 寺は見晴らしのよい丘陵台地上にある。

 〒601-1335京都府京都市伏見区醍醐一言寺裏町3  
タグ :洛南洛外


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2015年06月20日

醍醐寺


 真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖宝・理源大師が874年に醍醐山上に草庵を結び、観音像を彫刻して堂宇に安置したのが始まりとされる。
 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次第に堂塔が建立され、951年には五重塔が完成。
 左の写真は金堂から五重塔を眺めたところ。五重塔は京都府下では最古の建造物である。
 三宝院を拝観する場合は拝観料が必要だが、境内は自由に(無料)散策できる。三宝院内は撮影禁止であった。
 三宝院の庭園は豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自らが基本設計をした庭であり、桃山時代の華やかな雰囲気を伝える。
 山内は三宝院、五重塔等がある下醍醐と、ここから約1時間かけて山道を登ったところにある上醍醐に分かれる。
  秋には三宝院にて毎年大菊花展が催される。  霊宝館では、国宝・重文約4万点、寺宝10万点以上に及ぶ貴重な文化財が保存、展示されている。

 〒601-1325 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22  
タグ :洛南洛外


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2015年06月14日

御香宮神社


 御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇など九柱を祀る。 社伝によると、862年に境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので「御香宮」を賜ったとある。 この水は今でも境内の井戸から飲むことができる。井戸にはポンプが付いていて、蛇口をひねれば香水が出てくる。これをペットボトルなどに汲みに来る人も多い。
 応神天皇といえば、あの大阪の河内平野にある巨大な古墳を思い出す。あれだけ大きな墓を造るには、それに見合う巨大な権力があった事を想像させる。
 その母、神功皇后といえば、「三韓征伐」つまり朝鮮半島を征服したとされていた。(しかし、これは神話、作り話である)侵略しようとしたことは事実らしいが、征服ではなく敗退した。
 秀吉の時代にどう語られていたかは定かではないが、同じように朝鮮を侵略しようとした秀吉がこの神社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたというのは偶然ではないだろう。
 しかし、後に家康より旧地(現在の場所)に戻された。この時、現在の本殿(重要文化財)が建立された。表門(同)は旧伏見城の大手門と伝えられている。
 規模は縮小されたが、小堀遠州作の庭園が残されている。 ここは拝観料を払って見学できる。

 〒612-8039 京都府京都市伏見区御香宮門前町174  
タグ :洛南洛外


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2015年06月14日

伏見稲荷


  朱の鳥居と狐のいる全国の稲荷社の総本山として有名。 日本の神様は八百万(ヤオヨロズ)の神であるが、中でも八幡さんとお稲荷さんが多い。続いて天神さんだろう。  これを裏付けるデータとして神社本庁に登録されている神社は八万社あり、内四万が八幡社、三万が稲荷社だという。
  稲荷山に登ると京都の町が見下ろせるが、近くに東寺が見える。空海は東寺を建立する時、この稲荷山の木を切って利用した。
 その崇りがあり、当時の天皇であった嵯峨天皇の弟淳和帝が亡くなった。しかし、この事により嵯峨政権はその子孫に独占されて安泰し、この功績により稲荷神は国家鎮護の神として真言密教の東寺と深い関係を持つことになったというのである。
 お山参りをするとき、無数に並んだ朱色の鳥居を潜るのだが、日が差していると自分までが朱色に染まっているような錯覚に陥る。不思議な空間である。
 稲荷社と狐の結びつきには諸説あるが、元は狼であったのが狐に置き換えられたという説がある。稲荷社には大小様々な神様が祭られている。名のとおり稲の神(田)もその一つであるが、元は山の神が祭られていた。その象徴が狼であった。
 また、この地で栄えた秦氏の経済力に対する崇拝もあって、商売繁盛の徳により古くから庶民の尊敬を集めたとされる。
 近くの石峰寺によるのもいい。江戸時代の絵師・若冲が残した五百羅漢が拝観できる。

 〒612-0882 京都府京都市伏見区深草藪之内町68

  
タグ :洛南洛外


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2015年06月14日

毘沙門堂


 天台宗五箇室門跡の一つである毘沙門堂は、703年、文武天皇の勅願により、行基によって創建。その後の度重なる戦乱により1665年現在の山科の地に再建された。  後西天皇の皇子公弁法親王が入寺したことから門跡寺院となる。
 本尊である毘沙門天像は伝教大師の自作。比叡山延暦寺根本中堂の本尊薬師如来の余材で刻まれたと伝えられる秘仏で、十二年に一度公開される。 
 写真は宸殿の後ろに広がる晩翠園。  江戸初期に作られた回遊式庭園。谷川の水を引き、滝をおこし、「心」の裏文字を形取った池に注がれる。  亀石、千鳥石、座禅石などが配されている。  夏には池に20数種類にもおよぶ蓮の花が咲く。
 後西天皇の旧殿を賜ったという宸殿前には樹齢百余年の枝垂れ桜がある。その見事な枝振りは30メートルにもおよぶ。
 毘沙門堂へ行くには山科駅を降りて、山手の方へ坂道を登る。途中にある疎水を越えて、瑞光院の前を通り過ぎる。坂道の突き当たりが毘沙門堂である。
 私は若い頃、御陵に一人住まいをしていたことがある。休みの日などには天智天皇陵の辺りから登って、山の中腹に設けられた疎水沿いの道をよく散歩した。途中に置かれたベンチに腰掛けて持ってきた本を読んだり、この毘沙門堂へも何度か来たことがある。

 〒607-8003 京都府京都市山科区安朱稲荷山町18  
タグ :洛南洛外


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2015年06月14日

城南宮


 平安京の北東の鬼門に比叡山延暦寺を置き、南西の裏鬼門にこの城南宮を置いて王城を守護したといわれる。
 現在も多くの人々が方除け祈願に訪れる。私も今の家に引っ越した時、ここで方除け祈願をしてもらった。
 応徳3年(1086年)に白河法皇がここを中心に離宮を造営した。 
 楽水苑は平安・室町・桃山期の造園技術の粋を集めた3つの庭で構成されている。四季折々の花が楽しめる。
 春(4月29日)と秋(11月3日)に楽水苑の平安の庭で催される「曲水の宴」が有名である。この日は特別無料拝観。
 この日も会場は満席(立見客も多数)であり、TV局のカメラも何台か来ていた。
 11月は境内にて菊花展も催される。(写真)

 〒612-8459京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7  
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2015年06月14日

羅生門


 平安京の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通)と九条通との交差点に、都の正面入口として羅生門が建てられていた。
 門は二層からなり、瓦葺き、屋上の棟には鴟尾(シビ)が金色に輝いていた。正面約32m,奥行き8m、内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。
 1107年正月、山陰地方に源義親(ヨシチカ)を討伐た平正盛(マサモリ)は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還している。つまりこの門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治28年建立の標石を残すのみである。
 -- と標石横の案内板に書かれている。

 公園の中に建てられた標石だけでは、どんな門だったか想像できそうもないので、門の復元模型があると聞いて、三条高倉にある京都文化博物館まで足を運んだ。 その時に撮したのが2枚目の写真である。
 もとの名は羅城門であり、「らせいもん」とか「らいせいもん」と言われていたらしい。平安京を象徴する顔であった羅生門であるが、羅生門があったのは、千年の都の最初の二百年くらいであった。建築物としては構造的に不安定であったらしく、台風などにあおられて816年に転倒、後に再建されるが980年に再び倒壊、以後は建てられることはなかった。
 羅生門が物語に登場するのは「今昔物語集」である。ここでは門の上層部は死体置き場として描かれている。
 案内板には芥川の小説「羅生門」とあるが、正確には黒澤明が映画化したのは「藪の中」である。この中で羅生門は戦後の復興へのあかしとしてイメージされた。
 平安京の羅生門を見ることはできないが、二十世紀の羅生門として、京都駅の駅ビルがそう見えなくもない。 京都は今も昔もしたたかに新しいものを吸収してきた都市でもある。
 ビルでは違和感があると思われるなら、平安神宮の應天門(オウテンモン)にその昔を偲ぶことができなくもない。  
タグ :洛南洛外


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2015年06月13日

観智院


 教王護国寺(東寺)の子院(塔頭)の第1で、別格本山である。1359年に創建され、杲宝を開基とする。代々、学僧が住し、東寺塔頭の中で最も格式が高い。杲宝・第二世賢宝は膨大な聖教類を南都北嶺から集め、またそれらを書写した。この一万五千点以上にのぼる聖教類は、観智院東南隅の金剛蔵に納められていたことから、観智院金剛蔵聖教と名付けられ、重要文化財に指定されている。これらの膨大な資料は量質ともに最高を誇るもので、はやくから観智院は「一宗の観学院」と呼ばれていた。聖教類の多数は現在は東寺宝物館に収蔵されている。
  入り口を入ってすぐ横の庭。 この廊下を進むと客殿前の庭園に至る。  ここの庭は、春の特別拝観でしか見ることはできないが、東寺へ来れれたら、やはり金堂と講堂へ入って、薬師三尊や空海の構想した立体曼荼羅を見ることをお勧めする。
 その時のために、東寺が作成している十界の資料から拾い読みすると
 如来とは「自らも悟り、また他をも悟らせつつあるもの。自他平等の状態・」 菩薩とは「他と共に悟りを得ようとして願をおこし、修行しているもの。初めて自己を超えた状態。」 縁覚とは「生活の中から独り悟りを見つけ出た状態。生活者。」 声聞とは「教えを聞くことによって真理を学びとろうとしている状態。学生。」 (ここまでが悟) 天とは「勝れた楽を受けるが、なお苦を免れない。求めることはすべて充たされた人間の最高の状態。しかしそこにもなお苦がつきまとう。」 人間とは「堕落することもできるし悟ることもできる。そういう間的存在。地獄と仏の間。人と人の間、生と死の間。」 阿修羅とは「嫉妬心が強く、常に不安がつきまとい戦いばかりやっている状態。」 畜生とは「互いに他を餌食として生長し、自分のことしか見えない状態。」 餓鬼とは「飲食が得られないために苦の止むときがない。欲求不満の状態。」 地獄とは「極苦処ともいう。生きていることすべてが苦であるという状態。」 と書かれている。後の6つを六道という。
 客殿前の庭園(五大の庭)は、弘法大師が唐の長安で密教のすべてを受法し、数々の法具経典と共に帰国の海上で難にあったとき、守護の海神に護られ帰還した姿と、五大虚空蔵菩薩像の姿との、二つの着想から構成されていると云われる。

 〒601-8473 京都府京都市南区九条町403  
タグ :洛南洛外


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2015年06月13日

真如院


 日蓮宗大本山本圀寺の元塔頭で、1535年4月、日映上人により創建された。しかし、翌年に本圀寺一山は法難のため焼失してしまう。その後、再興され1560年には、足利十三代将軍義輝が、天下太平の祈願を催した。この祈願の時に、義昭(後の十五代将軍)は、真如院に現在保存されている名石の烏帽子石を移したと記されている。
 その後、1568年に織田信長が義昭を真如院に招いている。名園のあった真如院に義昭を招いたのは政治的な意図があった。義昭は義満(金閣)、義政(銀閣)と同じく大の庭園愛好家であったらしい。この点に着目した信長は、義昭の歓心を買うために、庭園を造らせたのだろう。そして京へ進出するために足利義昭という伝統的な権威を必要とした。
 真如院の庭園の特色は、小判石を鱗形に敷いて、水の流れの小浪を表現しているところである。室町時代の影響を受けながら、桃山初期に創られた庭園である。今は何度かの移転で規模も縮小されてしまっているが、当時はかなり大きな庭園であったらしい。
 義昭は天下人信長がデビューするには必要な人物であった。上洛した後、義昭は信長を副将軍に任命しようとしたが、これを信長は断っている。この時、義昭には「権威」があった。そして信長には「軍事力」があった。もう一つ政権に必要な物「賞罰権」をめぐって駆け引きがこの後行われる。
 二人がこの庭の前に立って、それぞれの思惑を隠して対峙していたのである。  
タグ :洛中


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2015年06月13日

壬生寺の狂言


 鑑真和尚の創建と伝わる古刹。  4月21日~29日、10月7日~9日に行われる壬生狂言が名高い。
 狂言の舞台横に植えられたサルスベリの白い花が咲いていた。(2001年7月29日)
 この季節(夏)にはよく見かける花であるが、白い花より赤い(ピンク)花の方が一般的である。
 舞台のすぐ前は保育園になっていて、子供達の明るい声が聞こえていた。
 近くに新撰組の屯所があったので、新撰組の隊士達も手が空いているときは、寺の行事などを手伝うこともあったらしい。
 寺の参道脇には隊士達の墓があり、今でも修学旅行生や若い人達が訪れる。
 新撰組には今の時代が無くしてしまった何かがあり、若者をひきつけるのかもしれない。 新撰組は最後の武士道を突き通した。歴史上から見れば、無駄な行為にも見えるが、憎めない存在である。
  壬生寺の東側に八木家がある。ここは新撰組の寝泊りしたところ(屯所)である。4年程前から一般に公開されるようになった。 西本願寺の屯所へ移るまでの5年間を近藤勇や土方らがここで過ごした。
 芹沢鴨暗殺の際のものと見られる刀傷も残されている。
 屯所といっても、ここは個人(八木家)の私邸であった。 八木家は新撰組とここで寝起きを共にしていたのである。
 近藤勇は握りこぶしを大きな口を開けて口の中にほおばることができたそうである。飲んでいる時の座興として主人らも何度か見たらしい。

 〒604-8821 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31  
タグ :洛中


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2015年06月13日

西院春日神社


 西院春日神社は西の大原野神社と東の吉田神社などと共に春日四神を祀る京の春日社の一つである。
 私事になるが、普段は市バスに乗って行くが、時々気が向くと歩いて通勤することがある。そのときはこの神社の境内を通ることにしている。裏から入って表へ出る形になるが、裏の参道には藤棚がある。季節には、その花を見上げて藤棚を潜るのが楽しみの一つである。また、境内には桜や梅の木もある。
 神主が育てたサツキや桔梗、菊など季節々の花を見て通るのも楽しい。
 近くに親戚の家もあるので、祭りを見に出掛ける事もある。十月八日が祭りの日である。ここの祭りも京の祭りの例に違わず、長い行列が静々と優雅に行進するが、中に五基の剣鉾と二基の神輿が混じる。こればかりは威勢がいい。伝統芸と言ってもいい、その鉾差しさんの動きは見ものである。重くて高い鉾を差して(かついで)、鉾の先をぺコンペコンとしならせ、鈴を鳴らすのである。
 春日社ではあるが、ここは藤原氏が建立した神社ではない。淳和天皇の皇女である崇子内親王が疱瘡に罹ったとき、神前の霊石に疱瘡が移って平癒した。この後、この石を病気平癒の神として祀り、淳和帝の死後、その住居跡が社となったとされる。この社には淳和天皇を祀る西院宮があるが、これは住居跡だからではなく、これも京の社によくあるタタリを鎮める意味が込められている。藤原氏の権力争いの巻き添えを食ったのが淳和天皇の子恒貞親王であった。そしてこの鎮魂の祭りが剣鉾と神輿の祭りであるという。

 〒615-0015 京都府京都市右京区西院春日町61  
タグ :洛中


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2015年06月13日

旧二条城 (二条新第)


 1569年に織田信長が将軍足利義昭の居館として築いた。今は旧二条城跡とされる二条殿町(まちづくりセンター入口)に石碑だけがある。
 義昭を擁して上洛を果たした後、信長は義昭を本圀寺に置いて一旦、岐阜城へ戻った。そのスキを衝いて三好勢が本圀寺を包囲した。知らせを受けた信長は大雪の中を出陣し、京に駆けつけている。この時は未だ、義昭の権威が必要であった。腐っても鯛といったところか。戻って敵を撃退した信長は城塞を兼ねた新第を造営した。これが二条新第である。
 この二条新第の造営にあたって、諸侯より人手と資材を徴発し、工事現場には常時1万五千人から2万五千人が働いた。また、この工事は公開で行われ、わずか2ヶ月で完成させている。(宣教師フロイスの日本史による) このイベントは信長を天下に知らしめる宣伝効果は十分にあった。 そういった建造物やおそらくあったであろう場内の庭などが今に残っていないのは残念なことである。
 この二条城の公開工事にしてもそうだが、信長が魁となったことは多い。楽市楽座や政教分離などもそうである。
 日本人が今、無宗教だと言われるのも(本当はそうでもないのだが)信長が行った宗教勢力との戦いが一因している。
 この時代の日本人は熱烈な信仰者だった。そして宗教集団が武装していた。政治には妥協がつきものだが、宗教には妥協がない。だから、この時代には宗教の違いによる戦争があった。
写真は京都文化博物館の中庭に展示されている旧二条城(二条新第)の北西の部分と推定される場所(上京区新町通下立売上ル両御霊町)から出土した石仏。
 信長は工事を短期間に終わらせるために、付近の寺院から石仏などを微発し、石垣や石段を築造するのに利用させた。  
タグ :洛中


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2015年06月07日

晴明神社


 神社の由緒書によると、安倍晴明公の邸跡に1007年、一条天皇が公の偉業を讃え、また御鎮霊の勅旨をもって創建されたとある。
 近年、小説、漫画等に取上げられ、映画にもなったことで、再び注目を集めている「安部晴明」であるが、このブームの御陰で神社も新しく増改築された。神社の前の土産物店では「陰陽師グッズ」などが売られている。
 今はちょうど京都文化博物館にて「安倍晴明展」が催されている。(2003年7月12日~8月17日) 私も見てきたが、なかなか面白かった。 最近、TVで放映されていた映画の方も見たが、興味ある人物である。
 安倍晴明という陰陽師は、今から千年の昔、朝廷に仕え、優れた才能により、安倍家を賀茂家と並ぶ陰陽師の家に押し上げた。 陰陽道とは、暦学や天文学の知識を生かして、呪いや占い、祭などをする宗教とされ、中国の陰陽、五行思想を取り入れて、平安時代に日本で成立した。
 明治維新後、政府によって禁じられてからは、庶民の習慣や行事として、暮らしの中に伝わってきた。
 身近なところでは、暦の六輝(先勝、友引・・・)や節分、ひな祭、茅の輪くぐりなどがある。
 例祭及び神幸祭は例年9月の秋分の日に賑やかに行われる。

 〒602-8222 京都府京都市上京区堀川通一条上ル−806  
タグ :洛中


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2015年06月07日

白峯神社の闘魂守


 明治天皇は即位の前に、讃岐(香川県)の白峰(坂出市)にある崇徳天皇陵へ勅使を送り、ここ京都の白峯神社へ神霊を帰還させた。
 崇徳天皇と言えば、平安朝末期に保元の乱を起こして失敗し、讃岐へ配流された人である。しかも、「皇を取って民となし、民を皇となす」、つまり天皇制をつぶすぞと言って死んだ人である。そのタタリは、源平盛衰記にも書かれたように現実となり、平安朝は衰退し、平家の時代、そして源頼朝による鎌倉幕府の時代となる。
 明治天皇が即位した時期の日本の状勢は、幕府の権威が失墜し、朝廷が再び政治の中心に組み込まれようとしていた。
 大政奉還、王政復古、天皇親政、そして天皇の神格化へと突き進んでいった。
 明治天皇は、崇徳天皇だけではなく、後にもう一人の天皇、淳仁天皇を合祀している。
 淳仁天皇もまた、称徳女帝に廃されて淡路島へ配流、非業のうちに亡くなっている。 つまりタタリを為すと思われていた。
 この白峯神社の地は、元は公家の飛鳥井氏の邸宅があったところと云われている。 飛鳥井氏は蹴鞠と和歌の宗家であり、その氏神である精大明神が、崇徳天皇の脇に祀られている。
 片方はタタリを恐れられ、これを鎮めて祀ることによって、善なる神に転化した御霊。もう一方は鞠の守護神だと言う。
 精大明神、近年は球技一般・スポーツの守護神として、参拝する人が多いという。「闘魂守」なる御守も売られている。
 例祭としては、4月14日に行われる淳仁天皇祭、七夕(7月7日)に行われる七夕祭、9月21日に行われる崇徳天皇祭などがある。 七夕には蹴鞠奉納や小町踊りの奉納があり、崇徳天皇祭には薪能が奉納される。
 神社は今出川通りに面しているが、例祭以外の日は、境内に一歩足を踏み入れれば、そこには、ひっそりとした空間が広がっている。

 〒602-0054京都府京都市上京区今出川堀川東入飛鳥井261  
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2015年06月07日

達磨寺


  臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれている。1727年に大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 つまり禅寺だが、僧侶ではなく室町の両替商(荒木)によって勧進された庶民的なお寺である。
 三国一を称する起上がり達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ一万余を祀る達磨堂は特に有名である。いたる所に達磨のオブジェがある。
 親戚の家が近くにあるので、節分に行ったことがあるが、大勢の参詣者でにぎわっていたのを覚えている。 確かお守りと小さな達磨を買って帰った。 その時写した達磨寺の庭の写真を探したが、整理が悪くて見つからなかった。 そこで秋の日に前を通りかかったときに、黄色いコスモスに目を惹かれて、カメラを向けたときの写真があったので、これを載せることにした。 いつでも行けるという気安さがある。また親戚のうちへ寄った時にでも更新しておきます。 1枚目は、同じ時に写した入り口付近。芙蓉の花が話しかけてきた。
 京都には「通称寺の会」と言うのがある。この寺のように正式名は「法輪寺」だけれど、通称名(達磨寺)の方で通っている寺が宗派を超えて集まって会を作っているのだ。
 他には、例えば秀吉が茶を飲みに立ち寄ったという「茶くれん寺」(浄土院)、「蛸薬師」(永福寺)、「千本ゑんま堂」(引接寺)、「猫寺」(称念寺)、「釘抜きさん」(石像寺)・・・などなど。
 通称寺のフォークロアを聞いて歩くだけでも楽しい。
 確かに「引接寺はどこにありますか」などと問われても京都人は誰もが首をかしげるだろう。
 ここは先に紹介した荒木なる人物が奉安した起上がり相の達磨大使坐像がきっかけで、参拝者が達磨を寄進するようになったので、達磨寺と呼ばれるようになったそうだ。

 〒602-8366 京都府京都市上京区行衛町457  
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