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2014年11月02日

きらら坂にて

きらら坂にて 叡山電車を修学院前で降りて、山手の方へ向かう。徐々につま先上がりになっていく坂を曼殊院まで登る。 今日は曼殊院へは寄らずに、その前で左へ折れて音羽川まで行き、きらら坂から比叡山を目指す。
 きらら坂の入り口(登山口)に 「親鸞聖人御旧蹟 きらら坂」と書かれた石碑が建てられている。 親鸞は比叡山にある無動寺大乗院(修行の地)から六角堂まで百ヶ日間参篭を繰り返した。 そのとき通ったのがきらら坂であったと云われる。 夜のきらら坂を下って、六角堂まで修行僧の足なら1時間半くらいだろうか。
 坂はいきなり急勾配になっている。大雨の時などは、この狭い道は川となって流れるのだろう。 何度も挫けそうになりながら、息を切らして登る。もうだめかと思ったところで、見晴らしのいい場所に出て救われた思いがする。宝ヶ池の辺りが見える。この登山道は、雲母を採取した山を登るので雲母(きらら)坂と呼ばれている。今は人一人が通るのがやっとの狭い道だが、昔はもっと広かったのではないか。少なくとももっと人の行き来があっただろうから、道らしい道であったと思う。ここを山法師が日吉神社の神輿を担いで通ったと云うのだから。 しかし、今は尾根筋へ出るまでの坂は殆ど廃道に近く荒れている。 小休止して、また登り始める。
きらら坂にて なんとか八瀬からのケーブルの終点まで辿り着いた。1時間半近くはかかっている。 シャツは汗でびっしょり濡れていたので、着替えることにした。眼下には京都の町並みが広がっていた。二条城、御所、相国寺、そして鴨川が見える。 親鸞が見た風景はどのようであったろうかと想像してみた。 また、親鸞が六角堂から大乗院へ帰る早朝の風景はどのようであったろうかと・・・。
 私は何故、親鸞の足跡を訪ねてみようと思ったか、今はまだはっきりとは自分でも説明ができないが、ただ同じように自然に触れてみて、鈍くなった感受性を少しは研ぎ澄ませたかったのではないか。汚れきったこの心身を少しは清めたかったのではないか。
 阿弥陀堂の阿弥陀仏坐像の前で手を合わせる。
 阿弥陀堂脇に秋明菊が咲いていた。
 石段を降りて根本中堂まで下る。 ちょうど昼時であったので、そば屋で山菜そばを食べた。ビールが欲しかったが、我慢した。 この後、今日は椿堂から釈迦堂あたりまで行ってみることにした。
 釈迦堂へ降りる手前に常行堂と法華堂があるが、修行中の僧が常行堂へ入って行くのとすれ違う。
 帰りも常行堂と法華堂の間を通ったが、かすかに修行僧の発する声が洩れてくるのが聞こえた。暗い堂の中を廻り、正面で立ち止まっては名号を唱えるのであろう。九十日間不断で続けられる常行三昧は生死の境を彷徨うに等しい苦行と聞いたが、本当に仏を見ることは叶うのであろうか。私などの凡人には計り知れないことである。
きらら坂にて 椿堂の横を通りかかったとき、行きではなぜか見落としていた 「親鸞聖人ご修行の地」と書かれた石碑に気づく。親鸞は九歳で慈円に預けられ、ほどなく比叡山に登り、修行の道に入る。これより二十年間の長きに渡って修行を続けたが、比叡山では一介の堂僧(修行僧)でしかなかった。
 その親鸞が六角堂への百ヶ日間参篭を機に転生するのである。また、この百ヶ日間の間に法然とも出会い、吉水草庵へ通学し、後に法然より親鸞の名を授かる。
帰りは膝が砕けそうになりながらも1時間弱で降りた。急な坂は降りるのも容易ではなかった。
 曼殊院の前の茶屋にて足を伸ばす。足が痛い。コーヒーを飲みながら、達成できたことに安堵する。
 途中何度も挫けそうになったが、終わってみると無性に「日を改めてもう一度登ってみよう」という気になっていた。




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