2015年04月29日
金戒光明寺、くろたにさん
紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称・黒谷さんの名前で親しまれている。寺の始まりは今から約八百年前の鎌倉時代。1175年春、法然上人が浄土宗の確立のため、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが起こりと伝えられている。本尊は阿弥陀如来。
御影堂大殿には法然上人の座像が安置されている。火災で焼失後昭和十九年に建て替えられたもので、昭和の模範建築物といわれている。
三門(写真)は1860年に完成。楼上正面に後小松天皇による「浄土真宗最初門」の勅額がある。 時代劇の映画撮影のロケ地としてよく使われているので、見覚えのある人もいるかもしれない。
阿弥陀堂は1612年豊臣秀頼により建立。くろ谷に現存する中で一番古い建物。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。
家康は秀吉の子・秀頼とその母・淀殿を弄んだ。まず手始めとして、秀吉の貯め込んだ財宝をはき出させるために、寺社の再興に使わせた。淀殿がその子・秀頼の名で行った宗教への投資は、この京だけでも北野天満宮、東寺南大門、叡山の横川の中堂、醍醐三宝院仁王門、南禅寺の法堂、岩清水八幡宮・・・京だけではない。それは近畿及びその周辺の寺社にまでおよんだ。
その一つがこの阿弥陀堂建立であった。
そして最後には、方広寺の大仏まで再建させた。そして問題の方広寺梵鐘の鐘銘事件へとつながっていく。
境内は広い。三門の前では、近くの子供達数名が野球の真似事をしていた。 三重塔へ続く階段を登ってゆくと、眼下に京の町並みや鴨川が見える。
文久二年(1862)十二月、京都守護職の台命が下り、会津藩主松平肥後守容保が、一千の藩兵を率いて上洛。
その会津藩の本陣となったのがここ黒谷金戒光明寺だった。
翌文久三年(1863)三月、この京都守護職を勤める会津藩御預かりという立場で、近藤や土方、芹沢らが新撰組として京都市内の警備の任につく事になる。
2004年の大河ドラマは新撰組であった。そのこともあって、新撰組ゆかりの地を訪ね歩く旅人を見かける。
〒606-8331京都府京都市左京区黒谷町121
Posted by koyuki at 14:31│Comments(0)
│京都の庭園
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