2015年05月04日
鹿王院
足利義満が宝幢寺の塔頭として建立。回廊で結ばれた諸堂の間に杉苔で覆われた枯山水の庭が広がる。 本尊釈迦如来は運慶作。
義満の建立動機は、寺を建立すれば寿命が延びると、夢に見たことにあると云われる。
宝幢寺(ホウドウジ)は、応仁の乱で焼失して廃絶したが、後に酒井忠知が再興し、開山堂(鹿王院)の名をとったものである。 開山堂の名称は、堂前に鹿が群れをなしていたことに因む。
女性のみだが宿泊(仏教研修)できる 。但し、朝の座禅は必修らしい。
あの一休さん(一休宗純)も十二歳のときに、ここで「維摩経」の講義を聴いている。一休さんゆかりの寺でもある。
ここ鹿王院や等持院、相国寺にある木像をみても、義満は武家というよりも優雅な公家といった雰囲気が濃厚である。特別に鹿苑寺(金閣寺)に伝存する義満像などは法皇の雰囲気すらある。
後に(幕末)、その木像の首は勤皇の徒によって三条の河原にさらされた事は有名であるが、これは彼が足利家による天皇家の乗っ取りを謀った事による。しかし、息子善嗣の元服の後、急逝してしまったので果たされなかった。 彼は政治家と言うより、美の探求者として公家以上に公家であった。和歌、連歌、蹴鞠、声明等々。客殿正面には義満筆の「鹿王院」の額が掲げられている。また、義満は猿楽愛好者であり、世阿弥や道阿弥を見出している。
金閣寺の建立等の資金は明(中国)との貿易によるが、義満は明から日本国王の称号を受けている。
客殿と本堂、舎利殿は回廊で結ばれている。舎利殿の背景には嵐山が見えている。町中にあって、すぐ近くを嵐電(京福電鉄)が走っているとは思えない静寂の中で客殿の縁に腰掛けて、インクが乾くくらいの時間、ボーとしていたいと思った。
〒616-8367 京都府京都市右京区嵯峨北堀町24
Posted by koyuki at 11:18│Comments(0)
│京都の庭園
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