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2015年05月30日

妙蓮寺の芙蓉


 本門法華宗の大本山で、日像上人を開基とする。
 度々、法難に遭い寺地をかえ、1587年に豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、現在の地に移った。現在の建物は1788年天明の大火後の再建である。  寺宝は長谷川等伯一派の筆になる金碧濃彩障壁画など重要文化財指定が多数ある。
 最近では芙蓉の寺として有名だが、銘椿・妙蓮寺椿(2~3月)の発祥地でもある。
 本堂前には春を彩る御会式桜(オエシキサクラ)があり、日蓮上人が入滅された10月13日前後から咲きはじめ、お釈迦様生誕の4月8日頃に満開となる。  毎月12日には手作り市・フリーマーケット「西陣楽市楽座桃山文化村」が開催される。
 最近よく西陣を歩く、または自転車で散策する。昔ながらの紅殻格子の町屋を見ながら過ぎる。
 軒先に家人の丹精込めた草木の花が咲いている。季節の花を見て歩くのが楽しい。植物園や寺の庭で育てられた花もいいが、町屋の野花もいいと思う。  大通りは通らず、出来るだけ細い路地をゆく。
 日蓮は「南無妙法蓮華経」ととなえながら、ドンドンドンドンと景気よく太鼓をたたいた。日蓮には浄土教のような無常観はない。あの世ではなくこの世で力強く生きる事を説いた。京都では商人に日蓮宗が多い。日蓮宗は室町時代に京都に進出し、寺がたくさん造られた。
 ところ:上京区堀川通寺之内西入ル

 2枚目の写真が十六羅漢石庭。桂離宮の造園を指図した妙蓮寺の僧、玉淵坊日首の作。中央の大きな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この石を涅槃像に見立てて、回りに十五の羅漢石を配する。十五?十六ではないのかと思われるだろう。それは庭を見ている自身であるという。
 ”余の花は みな末寺なり 妙蓮寺”  宗祇の歌で有名な妙蓮寺椿は今も毎年大きな花を咲かせる。

 〒602-8418京都府京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町875  
タグ :洛中芙蓉


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年05月24日

妙覚寺の紅葉


 京都市の案内によると「妙覚寺は日蓮宗京都十六本山の一つで妙顕寺、立本寺とともに三具足山といわれ、北龍華と呼ばれている」。
 開山は日像聖人。1378年に龍華院日実聖人が四条大宮の妙覚の地(四条大宮)に創建した。
 写真の大門は豊臣秀吉が建てた聚楽第の裏門であったものを移築したと伝えられる。 本瓦葺、切妻造の薬医門で、特色として左右にくぐり戸を配し、長い袖塀をもつ。
 大門から本堂までは長い石畳の道が伸びている。途中に向日葵の花が咲いていた。
  本能寺の変のときは、信長の嫡男信忠の宿所(二条衣棚に移っていた)となり、明智光秀に襲われて炎上している。
 この後、秀吉によって、現在の地に移された。
 信長の岳父(舅)・斉藤道三は若い頃この寺で修行していたということもあり、信長も度々ここを京都の宿所とした。
 信長はなぜか京都には城もしくは館を建てなかった。これが後に災いすることになる。
 境内の墓地には狩野元信、永徳の墓もある。
 この辺りは日蓮宗の大寺、妙顕寺、本法寺、妙蓮寺があり、宝鏡寺、報恩寺など寺が多い。また、小川通りを下って行けば、縦の目が細い千本格子の京都の町屋も見られる。 そんな事もあって、私はこの辺りを散策するのが好きだ。
 本法寺や報恩寺の山門の前には石橋がある。だが、今は名残りであり、小川は埋め立てられてない。 
 その昔、この小川を挟んで、応仁の乱が繰り広げられた。

 〒602-0007京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135  
タグ :洛中紅葉


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2015年05月24日

阿弥陀寺


 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来。1532年~1554年、清玉上人の開創になり、当初は現在の今出川大宮東に八町四方の境内と塔頭11ヶ寺を構えていた。
 当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、松永久秀によって焼かれた東大寺大仏殿の勧進職を命じると共に、当時を勅願所とされた。この時、織田信長は「分国中人別、毎月一銭を充てよ」という賦課を命じて、清玉の勧進を支えた。
 本能寺の変を知るや、清玉は弟子を伴って直ちに現場へ急行し、焼け跡から分別のつかないほど散在していた骨灰をかき集めて、阿弥陀寺に持ち帰り密葬に付した。
 本堂には信長、信忠親子の木像が安置され、墓地には信長、信忠及び家臣の墓がある。
 後にこの事を知った秀吉は、阿弥陀寺にて葬儀を営もうとしたが、清玉はこれを辞退した。 清玉には阿弥陀寺は世俗や権力の介入を拒み、そこから超越している「無縁所」であるという誇りもあったが、秀吉が信長の遺児をないがしろにして、権力を握ろうとする態度に不満であったとも云われる。
 阿弥陀寺は寺町通りに面している。同じ通りに北から天寧寺、阿弥陀寺、十念寺、仏陀寺などいくつもの寺が軒(山門)を並べている。少し下れば紫式部ゆかりの廬山寺もある。 御所を抜けてこの寺町通りを上がる散策の道は春の私の楽しみの一つだ。特に仏陀寺と天寧寺の庭には四季折々の花が目を楽しませてくれる。

 〒602-0802 京都府京都市上京区鶴山町14  
タグ :洛中


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2015年05月24日

天寧寺・額縁の門


 てんねいじと読む。もとは会津若松にあり、開山傑堂能勝大和尚は楠木正成の八男であると言われている。曹洞宗永平寺派。本尊は仏師春日作と伝えられる釈迦如来である。観音堂には後水尾天皇の念持仏「十一面観音菩薩」と東福門院の念持仏「薬師如来」が安置されている。  境内墓地には江戸時代初期の茶人として有名な金森宗和公の墓がある。侘茶の千宗旦と対比され「姫宗和」とよばれた優雅で上品な茶風は、禁中・公家の茶の湯に大きな影響を与えたとされる。
 普段は非公開の寺である。
 山門を通して比叡山が眺められる。あたかも額縁に入れたように見えるところから「額縁の門」といわれる。
 確かに比叡山や大文字山の借景がみごとだ。寺域に点在する数々の野草や木々が目を楽しませてくれる。蝋梅、侘助、南天も景色に溶け込んでいる。  もう少しするとヒゴスミレの白い花が見られる。春が待ち遠しい。
 ここの庭には晩春から夏にかけてマツヨイグサ(待宵草)がアヤメとともに垣根を彩ると聞いているので、またその頃来てみたいが、普段は非公開なので、その頃は山門は閉ざされているのだろうか。せめて山門が開かれていれば正面の庭だけでも覗くことができるのだが。

   
タグ :洛中


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2015年05月24日

常林寺


 浄土宗・光明山摂取院常林寺と号する。1573年に念仏専修僧魯道和尚によって開創された。当時は寺町通荒神口にあったが、1671年の大火で類焼して、現在の地(出町柳)へ地所替えとなった。本尊は来迎の阿弥陀三尊、境内の世継子育地蔵尊は門前から若狭街道を往還する人々の信仰を集めた。
 昔から「萩の寺」として知られ、毎年9月初めより萩の花が庭を覆うように咲く。(写真)
 私は萩の咲く頃、御所の横に建つ梨木神社(ここも萩で知られる)を訪れた後、加茂大橋を渡って、ここに立ち寄る。
 海軍伝習生として長崎や神戸にしばしば赴いた若き日の勝海舟が、京における宿坊にしていたとも云われる。
 常林寺の前で高野川と賀茂川が合流し、鴨川となって京の街を流れる。
 ある庭師が京都で一番好きな庭を尋ねられて、「加茂大橋からの加茂川の眺め」だと答えた。私もここから(写真)の眺めが好きだ。
 実は鴨川は人工的に造った川だという説がある。昔は京都の中心を流れていたのだが、川が氾濫し洪水などが多かったために、流れを東(今の鴨川)へ移したというのだ。
 川を飛び石伝いに渡っていく子供達をここから眺めているのも好きだ。  
タグ :洛中


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2015年05月24日

清浄華院


 清浄華院(ショウジョウケイン)
 860年に清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所内に御内仏殿の造営に着手し、864年に落成、禁裏内道場として発足したのが始まりと云われる。現在も梨木神社をはさんで御所の東側に位置する。
 はじめは天台宗であったが、後に後白河天皇が法然上人源空を住持としたところから浄土宗に転宗した。
 本堂には法然上人像や清和・村上両天皇の尊像と歴代天皇の尊碑を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓をはじめ、立入宗継や山科言継、姉小路公知など歴史上著名な人物の墓も多い。
 私が訪ねた目的は立入宗継という人物に興味を持ったからだが、墓までは探せなかった。立入宗継は織田信長と朝廷(天皇)の間を奔走し、正親町天皇から信長への決勝綸旨(朝敵追討命令)発給を推進した。
 これにより信長は「天下布武」を掲げて天皇の天下を静謐するという正当な目的を得て、全国制覇に乗り出したことになる。この綸旨には禁裏修理等の朝廷経済を救う命も含まれていた。この働きをもって後の世に立入宗継は勤皇家としての栄誉を受けたのである。
 信長は将軍義昭を京都へ上洛の表向きの錦の御旗として利用し、決勝綸旨の命を果たした後は、義昭を傀儡化し排除する。そして朝廷から将軍職の推任を得ようとしたところで本能寺の変で没するのである。  この推任を朝廷は良しとは思っていなかった。これが朝廷と明智とを結ぶ線である。これに伴天連(イエズス会を中心とした南欧勢力)が絡んでおり、実は黒幕であったという説もある。
 ・・・そんな歴史とは無関係に、現在の清浄華院はそれほど大きくもない寺域をさらに身売りして(マンションが建設されていた)、御所の脇でひっそりとしていた。

 〒602-0852京都府京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町395  
タグ :洛中


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2015年05月23日

廬山寺(ろさんじ)と紫式部


 京都を散策する方法としては市バスか自転車をお薦めする。 車では駐車場を探すのに時間がかかるし、駐車場さえ近くにない場合がある。
 市バスなら観光地なので、大概の寺院近くにはバス停がある。 気候がよければ自転車がいい。 家から自転車に乗って市内ならどこへでも行く。 運動にもなるし、自転車なら門の前まで乗り着けて、そこに駐輪し拝観できる。
 四条通から堀川を上がって、今出川を右折し烏丸通まで来れば、相国寺も御所もすぐそこである。 今日は相国寺から御所を通って櫨山寺へ。 入り口の門をくぐると右手奥に鐘楼が見える。  この地は紫式部の邸宅跡として知られ、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、五十九歳で逝去した。  この邸宅で「源氏物語」、「紫式部日記」、「紫式部集」を執筆したとされる。
 庭の向こうは歴代天皇の皇子・皇女の陵墓がある。  ここで光格天皇は再三月見の宴を催したそうである。
 庭は枯山水の平庭があり、苔の緑と白砂が美しいコントラストを見せている。  夏から秋にかけて桔梗の花が咲く。
 道を隔てた向かい側(御所との間)には梨木神社があり、秋は萩の花が境内を埋め尽くすように咲く。9月の中旬が見頃で、この頃、萩まつりが催される。

 〒602-0852 京都府京都市上京区北之辺町  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 18:57Comments(0)京都の庭園

2015年05月23日

護王神社


 神社の略記によると 「護王神社は、はじめ洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂公の霊社として祀られていましたが、確かな創建年は伝えられていません」とある。 ただ、神護寺には確か和気清麻呂公の霊廟が境内に今もある。
 和気公が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を神護寺(当初は和気公の私寺) に招いて彼らの活躍の場とした。
 後の嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられましたと同じく略記に記されている。 その後、明治19年(1886)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前の現在地に社殿を造営、姉君の和気広虫姫を合わせ祀り、御遷座されたと略記は続く。  その後、崇敬者により境内に霊猪像(狛いのしし)が奉納され、今も「いのしし神社」とも呼ばれて親しまれている。
 境内には結婚式場もあり、その前に「さざれ石」があり、その前に和気公の銅像が立っている。
 干支が猪の年は、例年になく初詣の参拝客が大勢訪れる。 実は私も猪年の生まれである。普段は氏神さんである松尾大社か、親戚の家へ年始参りに行ったついでに天神さんへお参りに行くくらいだが、猪年は(写真:2007年)は一人で護王神社まで参拝に出かけた。その時買ったお守りは今も本棚に置いてある。狛いのししの刺繍がかわいい。今年も良いことがありますように。

 〒602-8011京都府京都市 上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町385  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 18:49Comments(0)京都の庭園

2015年05月23日

閑院宮家跡


 京都御苑西南角にある閑院宮邸跡が修復され、公開されていると聞いたので、見学に行ってきました。
 ここは江戸時代から続いた閑院宮家の屋敷跡です。もともと京都御苑は、江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅があった公家町でした。  閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王家のひとつで、東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立されたそうです。  東山天皇の時代は、五代将軍徳川綱吉による生類憐れみの令発布や赤穂浪士の討ち入りなどが世情をにぎわしていた。
 この後の中御門天皇の時代に入り、朝幕関係はきわめて良好であり、閑院宮の創設などは、その反映といえる。
 写真は中庭です。  木造平屋建の内部には、収納展示室があり、京都御苑の自然と歴史に関する写真や絵図、閑院宮家ゆかりの品々が展示されています。  広い庭園も歩いて見学できるようになっています。
 歴史的価値が高い閑院宮邸跡を保存し、公家屋敷としての面影を遺す建築と庭園を活用するために、平成15年から3ヵ年をかけて全面的な改修が行われ、平成18年3月に竣工した。
 庭には芝生が敷き詰められ、天気も良かったので、つい寝転んでみたくなった。
 その築地塀の向こうが、丸太町通りであり、たくさんの車が行きかっているとは、全く想像できないほど、静かな空間であった。

  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 18:43Comments(0)京都の庭園

2015年05月23日

京都御苑


 砂利敷の広い苑路と築地塀、芝生と松林で構成される景観は、京都御苑の典型的な風景としてすっかり定着し、親しまれています。しかし御苑が現在のような姿に整備されたのは明治以降であり、それまでは約二百軒の公家屋敷が建ち並ぶ公家町を形成していた。明治2年の東京遷都に伴って多くの公家達も東京に移住し、御所周辺は急速に荒廃した。その後、天皇の御沙汰もあり、皇室苑地として整備され現在の京都御苑となった。
 御苑にはたくさんの巨樹がありますが、最初の1枚は一条邸跡のイチョウの木です。樹高約21mだそうです。秋の紅葉の時期に黄色く染まったイチョウの巨樹は、祐ノ井(サチノイ)の櫨(ハゼ)とともに私の好きな景観の一つです。
 京都の人はここを京都御苑と改まった言い方をせず、御所といいます。京都に住む人々にとっては憩いの場所であり、京都を訪れる人々にとっては歴史のロマンを感じさせる貴重な史跡です。しかし、その場所は平安遷都当時のものとは異なります。現在の千本通にその中心があった平安京大内裏は、たび重なる火災と再建を経て、1227年4月の焼失以降は造営されず、しばらくして荒野と化したのです。そのころの天皇は里内裏(実母の実家、ほとんどの場合が藤原摂関家の邸宅)に住むのが常態となっていました。
 京都三大祭りのうち、葵祭(5月15日)と時代祭(10月22日)の二つの行列が、京都御苑内から出発します。京都に住んでいながら、休日でないためもあって私はこの二つの祭りはTVのニュースでしか見たことがありません。春は梅林、桃林、近衛邸跡の枝垂れ桜が知られています。
 近くには足利義光の建てた相国寺や紫式部ゆかりの廬山寺(ロザンジ)がある。駐車場は烏丸通側(西)と寺町通(東)に二箇所あるので、ここに車を止めて散策されるのがいい。西側の駐車場は広い(250台収容)、3時間まで500円。
 西側の駐車場近くにあの蛤御門の変で知られる蛤御門がある。よく見ると御門にはこのときの弾痕が残っている。
 蛤御門から御苑内に入ると、すぐ右手が枇杷殿の遺址である。今は皇宮警察本部敷地内になっている。
 この辺りを徘徊して平安京を偲ぶのもまたいい。枇杷殿といえば、寛弘七年、一条天皇がここを御所とし、紫式部もここで宮仕えをしていたところである。同じ時期に清少納言もここで過ごしている。
  枇杷殿跡には桃林、梅林がある。春の花の咲く頃、梅林の間道をゆくと甘い梅の香りに包まれる。
 今(2月初旬)はまだ三分咲きといったところだが、深閑とした空気の中を歩いていると別天地のような心地さえしてくる。静寂で詩情が溢れていると言ったら言い過ぎだろうか。
 梅林から出水の小川を過ぎ、九条邸跡を通り過ぎると丸太町通に出る。 この九条邸跡が拾翠亭として一般に公開されている。3月から12月までの毎週金・土曜に参観料100円で入れる。庭にはサルスベリやモミジの木が植えられ、池面にはアオサギやアイガモが目を楽しませてくれる。 

 〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2015年05月23日

善峰寺


 西国三十三箇所巡りの第20番札所。 天然記念物の遊龍松は、寺を再興した徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の手植えの松。 重要文化財の多宝塔と経堂を囲むように、西北に長く枝が延びている。
 阪急の東向町駅より阪急バスで小塩(十輪寺前)まで行き、ここからつま先上がりの坂を善峰寺まで40分くらい歩く。 最後に長い石段を登る。  私は小塩から徒歩で登ってが、この努力は薬師寺の前(海抜350m)からの眺望によって報われた。
 途中に三鈷寺への山道があり、ここから三鈷寺を経由して善峰寺北門から行くこともできるが、この坂も険しいので、石段を登ることをお勧めする。
 阪急の東向町駅またはJR向日町駅からタクシーで坂の上まで行くことも出来るし、車でも行ける(駐車場有)。
 左の写真は阿弥陀堂への石畳の坂道。登りきったところに阿弥陀堂があり、左手には書院がある。
  奥の院薬師堂の前からの眺望。 正面遠景に比叡山が見えているのだが、この日は霞がかかっていて薄っすらとしか写っていないのが残念である。 眼下に京都の町並みが一望できる。正面に御所、相国寺、右手には京都駅前の京都タワーも見渡せる。 薬師如来は、毎日この絶景を眺めておられるのである。
 薬師堂へ続く石段脇には秋明菊がたくさん咲いていた。 秋明菊は別名を貴船菊とも言うが、近頃は貴船では見られなくなった花だが、ここでは寺のあちこちに植えられ、9月の終わりから10月の終わり頃まで赤や白の花を咲かせる。
 薬師堂横には桂昌院の献歌碑がある。

   たらちをの 願いをこめし 寺なれば
      われも忘れじ 南無薬師仏
 薬師堂裏の蓮華寿院庭の池の回りにも秋明菊がたくさん咲いていた。
 赤い花はやや見頃を過ぎていたが、白い花は今(10月中頃)が見頃であり、満開であった。
 蓮華寿院庭は昔、青蓮院の宮々が代々、この地で善峰寺の住職された所にして、西山宮又は、御所屋敷と称し、蓮華寿院があったところと云われる。
 善峰寺の開祖は源算上人であり、釈迦堂には上人作の本尊石仏釈迦如来が安置されている。 この釈迦如来像は日本には例のない合掌姿である。 毎月、第二日曜にはお釈迦様のお風呂があり、入浴できる。
 帰りは釈迦堂の前の石段を下りて北門から出て、三鈷寺を廻って山道を降りた。 三鈷寺は修理中であった。 この参道脇で蛇がとぐろを巻いていて、ビックリさせられ、足早に降りた。

 〒610-1133 京都府京都市西京区大原野小塩町1372  
タグ :洛西


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2015年05月17日

光明寺の紅葉


 西山浄土宗総本山光明寺。ここは、平安末期に源頼朝に仕えて活躍した武将・熊谷直実が建立した寺である。
 直実は平氏との一ノ谷の戦いにおいて、敵将・平敦盛を討ち取った。
 その後は、息子と同じ16歳の敦盛を討ったことから無常を感じ、それをきっかけとして出家、法然に帰依し、敦盛の菩提をともらった。
 このくだりは、平家物語や歌舞伎の「熊谷陣屋」、新渡戸稲造の「武士道」でも語られている。
 春は桜、秋は紅葉の景勝地としても知られている。特に紅葉の時期、総門を入って、表参道横の薬医門を経て玄関へ通じる「もみじ参道」は美しい。紅葉寺とも称される。11月下旬頃が見頃となる。
 紅葉まつりは毎年、11月15日・16日に行われる。
 写真(2004年)はもみじ参道の紅葉。他より見頃が遅いところだ。

 〒617-0811 京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1  
タグ :洛西紅葉


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2015年05月17日

愛宕神社


 愛宕山上にある旧府社。祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)等。防火の神として各地の愛宕社の根本社。愛宕権現。
 清滝の登り口から、月輪寺の方からだと約7km。表参道の方からなら約4km。私は、月輪寺へ寄りたかったので、7kmの山道を登った。かなり急勾配なところもあり、何度か途中で引き返したくなったが、せっかく月輪寺まで来たのだからと我を励まして山頂まで登り切った。
 京都の中学校や高校では、伝統的に?1度は愛宕さんへ学校から歩いて登ることになっている。(全ての学校がというわけではないが) 幸か不幸か私は京都の学校ではなかったので、今回がはじめてであった。
 途中でトレーニング・ウェアを着て、駆け上がっていく人に出会ったが、昔、清滝の登り口の近くに映画俳優の千葉真一の道場があったらしい。阪神タイガースが優勝した年は、ここがキャンプ地だったそうだ。  ここは、比叡山のように車で登ることはできない。
 写真は、表参道を山頂から少し下った辺りの見晴らしのいい場所から眺めた京都の街である。
 明智光秀は、本能寺を奇襲する前に、ここ愛宕山へ亀山城から、わずかの従者を連れて登り、勝軍地蔵に戦勝を祈願している。

 〒616-8458 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1  
タグ :洛西


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2015年05月17日

高山寺とミツバツツジ


 国宝石水院は、鎌倉時代初期の寝殿造りの面影を残す貴重な遺構である。鳥獣戯画4巻(国宝)など文化財の宝庫でもある。
 私が訪れたのは4月中旬頃だったので、石水院の庭にはシャクナゲがたくさん咲いていた。また、ここまで来るまでの車窓からは、ミツバツツジの群生しているのが見られた。
 秋は紅葉の名所でもある。栂尾山と号する真言宗の寺であり、光仁天皇の勅願によって開創され、1206年に後鳥羽上皇の院宣によって明恵上人が再興し、寺名を高山寺と改めた。  広い境内には石水院の他に開山堂、金堂などが立ち並んでいる。
 石水院は後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。  境内には茶園があり、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したと云われている。
 この由緒から、毎年11月8日には宇治茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。  境内を歩くと老松や杉の古木、北山杉、カエデなどが覆い、昼なお暗い深山の趣きがある。

 〒616-8295京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
  
タグ :洛西


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2015年05月17日

神護寺の紅葉


 809年から14年間、空海が住持として活躍した。薬師如来立像と五大虚空蔵菩薩像は、貞観時代の密教彫刻の傑作と云われる。
 紅葉の名所であり、近くには西明寺、高山寺もある。 11月中旬以降下旬までが見頃だが、シーズン中は駐車場も満車になるので、バスで行くか、少し朝早く行けば駐車もできる。
 駐車場から神護寺までは紅葉した参道を20分くらい登る。紅葉は誠に美しい。東福寺や永観堂もいいが、やはり高尾の紅葉は格別である。 写真は大師堂(弘法大師住房跡)。空海は長安(中国の都)から、持ち帰った密教の教えを、ここから弘めた。
 最澄と空海が共に活躍の場としたところでもある。ここで最澄は空海から密教の勧請を受けた。
 面授(人から人へ直接伝える)ではなく、空海の持ち帰った密教の経典を借り受けて、書物によって密教を理解しようとした最澄に、天才空海は冷ややかであった。
 木々の緑におおわれて、楓とその色を競うように建っているのは和気公霊廟。その昔、ここは高尾山寺と称する和気氏の私寺であった。
 ここへ和気氏が最初に最澄を、そして後に長安(遣唐使)から帰った空海を招いて彼らの活躍の場とした。
 空海はここで十四年間住持し、後に東寺(官寺)を嵯峨天皇から与えられる。
 その後、官寺では思うようにならなかったのか、私寺として高野山を開く。そこはかって空海が訪れた長安の都を彷彿とさせた。
  地蔵院の庭からは渓谷、錦雲渓が一望できる。 ここから素焼きの皿を投げる 「かわらけ投げ」 が有名である。  眼下には錦織なす清滝川がゆるやかに流れているのが見える。  地蔵院の近くの茶店の脇には白い山茶花が咲いていた。
 残念ながら、ここでは書の達人として名高い天才空海のその書を見ることは叶わない。

 〒616-8292 京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町5  
タグ :洛西


2015年05月17日

愛宕念仏寺 (おたぎねんぶつじ)


 称徳天皇(764~770年)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されたのが始まりだという。
 平安朝の初めには、東寺に属していたが、鴨川の洪水によって堂宇が流失したため、天台宗の僧・阿闍梨伝燈大法師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興された。
 今ある場所は愛宕山の麓、清滝へ通じるトンネルの手前である。大正十一年に東山の松原通り弓矢町から堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係からここへ移築された。
 千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれ、両親の信仰の厚かった千手観音にあやかり幼名・千観丸と名付けられた。千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めたとある。(寺伝)
 重要文化財に指定されている千観内供の木造がある。内供とは皇居に参内を許された僧位。
 千観は空也上人を慕って身を捨て、浄土教に転向し、天皇、貴族に仕える僧ではなく、民衆のために働く乞食僧になった。後に親鸞や一遍に受け継がれることとなる「和讃」(解りやすく信仰の教えを詩にしたもの)を作って、浄土教を民衆に普及した。
 境内には千二百体の羅漢の石像があり、その豊かな表情は訪れる人々の心を和ませてくれる。
 現在の住職である西村公朝師は東京美術学校の彫刻科を出て、保存技術の教授を務められた彫刻家であり、画家でもある。
 千観は「笑仏」と言われた。その影響からか一般の人達が作った千躰の羅漢像も皆、朗らかな笑みを湛えている。

 〒616-8439 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2−5  
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2015年05月10日

常寂光寺


 寺名は常寂光土(法身仏の住む浄土)に遊ぶような趣があるという意味。 その名の通り、全山を覆う紅葉と、その中に浮かぶ茅葺きの仁王門が美しい。
 1596年に日禎上人が角倉了以らから土地を与えられて創建したという。 「軒端の寺」ともいい、小倉百人一首を選んだ藤原定家の「時雨亭」がこの辺りだったとも云われる。
 写真は仁王門を階段の上から見下ろしたところ。
 仁王門は、もと本圀寺客殿の南門だったものを移築したとされる。(南北朝時代の建立) 仁王像は丈七尺(約2m)あり、若狭小浜の長源寺より移したもので、運慶作と伝えられる。
 少し登ったところに多宝塔がある。  小倉山からの眺めは美しく、京都の町並みが衣笠山、双ヶ丘、大文字山を背にして見える。
 遠くには比叡山も霞んで見えている。
 春はミツバツツジが境内のあちらこちらに咲いて、色を添えている。 休憩所では住職が育てたボタンの花や野の花が目を楽しませてくれる。  近くには芭蕉も何度か訪れたことのある洛柿舎がある。
 嵐山から清涼寺、常寂光院、二尊院、祇王寺、化野へと続く道は、春ともなるとハイカーや観光客も多いが、道端や野に色とりどりの花が咲く。 青々とした山には野生のツツジや藤の花が色を添えている。
 
 〒616-8397京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3  
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2015年05月10日

宝筺院の紅葉


 善入山と号する臨済宗の寺である。平安時代に白河天皇の勅願により創建された。南北朝時代に夢窓疎石の高弟黙庵が復興した。
 後に、室町幕府二代将軍足利義詮の没後、その院号宝筺院に因んで寺名が改められた。
 境内奥に楠木正行(正成の子)の首塚である五輪石塔と義詮の墓である宝筺印塔が並んでいる。
 近くには清凉寺や二尊院があり、秋の紅葉が美しい。10月下旬に訪れたのだが、紅葉を見るなら11月中旬から下旬がいい。
 庭園は回遊式になっていて本堂裏から、宝筺印塔へ小道が続いており、裏(西側)は竹やぶになっている。 小道脇に山茶花の白い花が咲いていました。
 左手奥に楠木正行の首塚と義詮の墓である宝筺印塔が石の柵に囲まれて立っている。
 正行は四条畷の合戦で高師尚の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼によりこの寺に葬った。後にこの話を聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。義詮は38歳で没した。

 〒616-8424 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9  
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2015年05月10日

二尊院


 「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院と呼ばれるが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」という。
 嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が開山したと云われている。(834~847年)
 総門は豪商角倉了以が、伏見城の「薬医門」を移築したもので、参道は紅葉の馬場といわれ、秋には紅葉の美しいところです。
 3月には参道の坂を登り切ったあたりに沈丁花の花が咲きます。 今日は沈丁花の花を求めて何度目かの訪問をしてきました。
 本堂の前の庭にはもう少しすると(4月中旬頃から5月初旬にかけて)ハナミズキや山吹の花が咲きます。
  参道の紅葉は見事です。一度は紅葉の時期に来られることをお勧めしますが、紅葉シーズンの嵐山から小倉山あたりは観光客が大勢訪れるため、まるで町中の雑踏を歩いてような感じさえするときがあります。
 それと比べて新緑の頃は人も疎らで、のんびりと青々としたもみじの下を歩くことができるので、私はこの時期の方が好きです。
 沈丁花の咲く今の季節は参道のもみじは葉をすっかり落としていて、寂しいばかりなので、写真は昨年の4月下旬に撮ったものを載せました。
 六年間の修行期間を終えた法然が比叡山を降りて行脚に出た頃、京都では「保元の乱」が起こっていた。待賢門院を母に同じ血を分けた崇徳上皇と後白河天皇の両勢力がぶつかって、保元の乱が起きた。平氏は忠正が上皇方、甥の清盛が天皇方、源氏は為義が上皇方、子の義朝が天皇方について、肉親が敵味方に分かれて兵刃を交えたと云うのだから、醜い戦いであったと云うほかない。そんな京都市中を抜けて、法然は一人ここ嵯峨の華台寺をめざしたが、その頃の華台寺は荒れ放題になっていたらしい。 
  本堂脇の急な石段を登り切ったところに法然の廟があり、そこを左に行くと時雨亭跡(小倉百人一首選定の地と云われる)であり、右に行くと三帝陵(土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇)である。
 法然はここ華台寺から奈良へ向かう。行脚の途中、各宗派の学匠と法論を交わす。法然は今で言えば大学の教授のような人であった。奈良からここ華台寺へ帰った法然は、少しして叡山の黒谷へ戻ることになる。
 黒谷にこもって一切経を読むこと十数年と伝記にはあるが、一切経とは五千四十八巻から成る漢訳仏教聖典の集成である。
 小倉山を背景に建つ本堂は京都御所の紫宸殿を模して造られているという。向かって右側が現世の悩みを取り去る釈迦如来、左があの世の極楽へ迎え入れる阿弥陀如来が祀られ、現世来世を見守っている。

 〒616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27  
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2015年05月10日

祇王寺


 京福電車の嵐山駅を出て、前の道を右へ途中JRの踏切を渡ってまっすぐ行くと清凉寺の仁王門に突き当たる。そこを左に曲がって清凉寺の壁沿いに進むと角にあるのが宝筺院、道なりに西の方角へ歩くと二尊院、そこからさらに歩いて小倉山麓の祇王寺に辿り着く。
 庭は苔が一面に生えていて、楓が庭を覆うように枝を伸ばしている。
 ここは平家物語ゆかりの尼寺であり、平清盛の寵愛を失った白拍子(平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを歌い舞う遊女) の祇王が隠棲した場所として知られる。後に、祇王に代わって清盛に仕えていた仏御前もここを訪れ、共に出家したという。
  ささやかな本堂には祇王と仏御前、祇王の母刀自、妹の祇女、それに清盛の木造が安置されている。
 訪れる季節は秋の紅葉の時期(11月中旬から下旬)がいい。落葉の散り敷かれた庭が美しい。

  五十年の夢とりどりの落ち葉かな
                        智照尼
 小春日和に嵯峨野の史跡を散策するのは、いいものである。祇王寺を過ぎて、さらに歩くと化野念仏寺がある。 戻って柿落舎、常寂光寺も紅葉が美しい。

 〒616-8435京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32  
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