乙訓寺のボタン

koyuki

2013年04月28日 07:00

 聖徳太子が十一面観世音菩薩を本尊として伽藍を建立したのが始まりとされる。
 後に桓武天皇が784年に長岡に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として大増築された。しかし、翌年に藤原種継が暗殺され、この事件の首謀者として皇太子早良親王がここに幽閉された。(2枚目の写真は早良親王の供養等)
 かっては広い境内であったというが、今は住宅地の中に埋もれた感じでひっそりと佇んでいる。
 嵯峨天皇は811年に空海を乙訓寺の別当に任命する。境内に柑子の樹が一本残っていた。 空海がここへ入った頃も黄色い柑子の小さな実がたくさん成っており、これを嵯峨天皇に贈ったことが記録されている。
 空海がここに居たのはわずか1年足らずの短い期間であったが、ここではじめて空海(39歳)と最澄(46歳)が出会った。
 最澄は密教について空海に教えを請うために、わざわざここ乙訓寺を訪問している。 仏教界の二大巨頭がここではじめて会ったのだが、二人の仲は長くは続かなかった。
 乙訓寺が1年で一番賑わうのが、4月下旬から5月上旬の牡丹の花が咲く季節である。境内には2千株の牡丹が植えられている。この時ばかりは拝観料(300円)が必要となる。長谷寺から贈られた2株の牡丹を毎年増やして今に至っているという。

 〒617-0814 京都府長岡京市今里3丁目14−7

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