2013年09月29日
建勲神社

船岡山の東側にあり、境内からは左大文字山が見える。 参道(丘)を登ったところに社があり、そこに立てられた案内板には
「・・・信長公は行き詰まった旧来の政治、社会秩序、腐敗した宗教等を果敢に打破し、日本国民全体の日本を追求された。 明治天皇より建勲の神号を賜り、別格官弊社に列せられ、ここ船岡山に大王の神として奉斎されている。」
と記されていた。
境内の石碑には桶狭間の合戦出陣に際し、信長が舞った「敦盛」の一節が書かれていた。
人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て
滅せぬ者のあるべきか
船岡祭の最後に保存会の人達によって火縄銃による演武が行われるが、その時の連弾の風景である。空砲とは知っていても、その音の大きさに驚かされた。
船岡祭は同じ11月に催される時代祭などのように大勢の観光客がつめかけるということもない。この日は火縄銃の演武を目当てに小学生の一団とTV局が来ていたが、それでも境内は、それほど混雑してはいなかった。
祭りと言っても境内に屋台が出ているわけでもない。
祭りを見た後、この日は近くにある蕎麦屋(かね井)で山かけそばを食べた。 大徳寺に来たときは、お昼時なら必ずここで蕎麦とビールを注文することにしている。
家人へのお土産に、蕎麦屋の一軒おいて隣にある茶洛(サラク)でわらびもちを買って帰った。
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2013年09月28日
リアス亭でホタテうどん

2013年09月23日
能古うどん

2013年09月22日
船岡山

京都の街は北から南へ向かってなだらかな斜面になっているので、この船岡山(丘)からでも平安京のあった全域がほぼ見渡せる。
南の東寺に建つ五重塔のテッペンと北大路通の高さ(海抜)がちょうど同じくらいになる。だから京都では交差点から南へ行くことを下ガル、北へ行くことを上ガルと言いう。
朱雀大路(現在の千本通り)をまっすぐ引き、東に東寺、西に西寺(今は西寺跡に石柱が立つのみ)、そして京の入り口に羅生門があった。
東に河川(賀茂川)、西に街道(山陰道)、北に山系(北山・鞍馬山)、東南に池泉(巨椋池は今は干拓されてない)。中国が都を置くときの風水学的に理想の地相(四神相応)を照覧していた。祟りから逃れるために遷都を急いでいた桓武天皇にとっては理想の地に思えたのであろう。確かにこの後、千年の長きの間、日本の王都として栄えた。
船岡山の東側には、明治天皇が織田信長を祀った建勲神社がある。
境内からは左大文字山が見える。 境内にも山頂へ登る道端にもアセビの小さな白い花がたくさん咲いていた。
山頂への道端には石仏がいくつも置かれ、その一つ一つには誰が供えたのか、アセビの花があった。
船岡山は応仁の乱の戦場ともなった場所である。近くには西陣も見える。
北側を望めば、眼下に今宮神社の赤い鳥居が見える。その横には大徳寺の広い境内が見渡せる。
桓武天皇は父光仁(コウニン)天皇の跡を継いで皇位についたのだが、このために、もともと皇太子であった弟他戸親王(オサベシンノウ)を失脚、幽閉そして暗殺させた。これが終生怨霊に悩まされ続けた事の始まりであった。
桓武が皇太子となった頃から、地震、飢饉、疫病などの天災が相次ぎ、他戸親王の祟りだと噂された。
この後も皇位継承問題は続く。父光仁の遺言で皇太子とされた早良(サワラ)親王を廃し、息子の安殿(アテ)親王に皇位を継がせる。非業のうちに早良親王は死に、この祟りが猛威をふるう。
これらの怨霊を逃れるために桓武は平安京に遷都する。そうして怨霊を封じるための結界を築く。 それが、今に残る四つの大将軍社であり、鬼門に設けられた上御霊神社、比叡山延暦寺であり、他にも鞍馬寺、東寺、清水寺、城南宮等々がある。
〒603-8227京都府京都市北区紫野北舟岡町
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2013年09月21日
国分寺の紅葉

2013年09月16日
下鴨神社の糺ノ森

一月四日の蹴鞠初めが行われる日に一度来たいと思いつつ、いつも逃がしている。
元旦は参道にたくさんの露天が並び賑やかであるが、普段は静かなところである。参道脇にある糺の森は山城原野の面影をとどめ、森を流れる瀬見の小川は清らかである。
平安京遷都以前からこの地に住んだ賀茂氏の祖神を祭る古社であり、正式には賀茂御祖(カモミオヤ)神社という。糺の森とともに世界文化遺産に登録され、京都三大祭の一つ、葵祭が催されることでも知られる。
糺ノ森の中を長い参道が楼門まで延びている。
糺とは、 神が顕れるところ。 御祭神、賀茂建角身命が人々の訴えを聞き、正邪を糾されたところ。 蓼巣・・・蓼科の植物が群生しているところ。 高野川と鴨川など川の合流する三角州を只州という。 といくつかの意味が伝えられているそうです。
また、源氏物語には光源氏鴨社を拝して詠める歌がある。
憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ
名をば糺の 神にまかせて
史跡糺ノ森は、一二万四千平方メートルあり、約四十種、樹齢二百年から六百年の木々が約六百本、直径十センチ以上の木々約四千七百本が群生しているという。
冬の森は眠っているようであった。 ここは秋の紅葉の頃がいい。
ここ(写真)はみたらしの池である。葵祭りに先立って斎王代禊之儀が行われるところである。
また、土用の丑の日、みたらし祭りがおこなわれ、みたらし池に足をつけると、無病息災ですごせると伝えられ、前日と当日には数万人の参拝者が訪れる。
毎年行われるのかどうか知らないが、この池にホタルが放たれると聞いて、家族で来たことがあった。子供たちは初めて闇の中で光るホタルを見てはしゃいでいた。
〒606-0807 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
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2013年09月15日
盛楼閣で冷麺

2013年09月14日
すずめで冷やかけ

2013年09月08日
上賀茂神社

平安時代には朝廷の崇敬が篤かった。京都の三大祭りの一つとして知られる葵祭は、この上賀茂神社と下鴨神社の大例祭である。
葵祭りの行列は御所を出発して、下鴨神社で休憩した後、上賀茂神社へ至る。
長い参道を通って、鳥居をくぐると拝殿前には立砂があり、厳かな雰囲気の中に緊張感を伝える。
拝殿と舞殿(橋殿)の間を通って、奈良の小川を渡り、本殿へ進む。橋のたもとには萩が植えられている。
京都で霧の発生するのは、夜中の気温が十度以下になる十一月初め頃である。朝霧の中、拝殿と橋殿、立砂の周辺を深い霧が包むとき、神の降臨する雰囲気が漂う。
「風そよぐ奈良の小川の夕暮れは
みそぎぞ夏のしるしなりける」
小倉百人一首の古歌で有名な「奈良の小川」が上賀茂神社の境内を流れる。真夏の暑い時も水辺は涼しい。
この小川は明神川へ合流し、土塀に囲まれた社家町の庭を巡る。
社家庭園の一つ西村家が3月中旬頃から12月初旬まで一般に公開されている。
上賀茂と言えば、すぐきと賀茂なすを思い出す。十二月に入るとこの辺りの農家の軒先に「すぐき」と書かれたのぼりが掲げられ、自家製のすぐきが販売される。また、なすびの田楽としておいしい賀茂なすも上賀茂の特産品である。
〒603-8047 京都府京都市北区上賀茂本山339
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2013年09月07日
春木屋でつけ麺

2013年09月01日
神光院の庭

境内には江戸時代の歌人・太田垣連月の茶所や石碑があり、連月が隠れ住んだことでも有名である。富岡鉄斉とも親交があった。
うつ人もうたれる人も心せよ
同じ御国の御民ならずや
春は桜、秋は紅葉の美しいところでもある。春は染井吉野の桜が山門を蔽うように咲く。晩春の霧島ツツジ。小さな池の畔のムクゲやサルスベリ、マンジュシャゲ。冬は白い八重の山茶花がきれいだ。
寺のすぐ後ろには舟山があり、盂蘭盆の五山の送り火には舟形がともされる。
毎年キュウリに病魔を封じ込める「きゅうり封じ」が7月21日に行なわれる。弘法大師ゆかりの伝統行事で、護符を差し込んだキュウリに名前や病を書いた紙を巻き、祈とうした後、地中に埋める。キュウリが土に返ることで病も消えると云い、厄除大師として信仰されている。
ちなみに京都三弘法とは、ここ神光院、仁和寺、そして東寺のことを云う。
〒603-8836 京都府京都市北区西賀茂神光院町120
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