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2012年07月29日

金閣寺と庭園

 正式には鹿苑寺(ロクオンジ)という。お釈迦様の骨をまつった舎利殿「金閣」が有名なため、金閣寺と呼ばれている。

 1397年に足利三代将軍義満が山荘北山殿を造った。義満の死後、夢窓国師を開山として義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名付けられた。
 義満は中国明の皇帝から日本国王の称号を正式に得て、朝廷の持っていた外交権を手に入れ、明との貿易により莫大な利益を得た。
 日本国王義満としての宮殿が金閣である。当時はもっと広大な土地に七重の塔や天鏡閣、寝殿、看雲亭、本堂等々があった。しかも会所である天鏡閣と金閣の間は拱北廊という空中廊下で結ばれていたという。
 四代将軍義持が金閣を残して解体してしまったので、残念ながら今は見ることはできない。

 金閣は三重構造になっている。一階が寝殿造、二階が武家造、三階が禅宗仏殿造であり、朝廷の上に武士(幕府)があり、その上に日本国王である義満(その頃は出家して禅僧)がある。おまけに屋根には鳳凰の飾りがつけられた。
 今は寺となっているが、当時の金閣は義満のコレクションが飾られた迎賓館であった。
 安民沢(アンミンタク)は昔からある池の名前で、中の島には「百蛇の塚」がある。

 この地は鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第があったが、義満が気に入って西園寺家から譲り受けた(奪った?)とされている。
 とにかく権力にものを云わせて天皇にまで義満はなろうとしたが、急死(朝廷勢力による暗殺とも言われる)したためこれは適わなかった。
 実は当時の後円融天皇と義満はいとこ同士(義満の母と後円融の母は姉妹)であり、年齢も同じだった。父系ではなく母系であるから、皇族ではないが、天皇家ときわめて近いところにあった。興味は尽きない。教科書には載りそうもない話だが、彼のしでかした事を調べると天皇というものも見えてくる。 

 〒603-8361 京都府京都市北区金閣寺町1  

Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2012年07月28日

魚や

 ととやと読みます。木更津駅の近く (東口から徒歩5分くらい)にある。 店内はカウンター席のみ。店内の入り口近くでお惣菜も売っている。ランチでは他に海鮮丼や穴子天丼、とんかつなどもあった。どれも500円くらいで安い。 
 この日、注文したのはマグロ丼500円だ。(写真) マグロの分厚く切った身がたっぷりのっかっている。新鮮で美味しかった。 次回は穴子天丼かな・・・。
 別の日に食べた穴子天丼だ。野菜の天ぷらも付いて、これも500円だった。 穴子がでかい!時間があまりなかったので、食べるのに苦労した。でも美味しかった。 次回は、その日来る客が皆注文していた海鮮丼かな・・・。  

Posted by koyuki at 07:00Comments(0)地方巡業

2012年07月22日

高桐院の紅葉

 ここも好きな庭の一つだ。一等いいのは青紅葉の頃だが、秋の紅葉も雪もいい。
 「 細川藤孝(幽斎)の長子忠興(三斎)により建立された大徳寺塔頭の一である。
 高桐院(コウトウイン)の参道は表門から鍵の手に唐門を望む自然石の敷石道である。
 この門を入って右に曲がる参道がまたいい。 青葉を天蓋に頂く一直線の参道は幽玄の気に満ちている。
 青葉を見上げながら、ガラシャ夫人の辞世の詩を思い出した。

  ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
    花も花なれ 人も人なれ
 三斎は関ヶ原の合戦で、妻と二人の子を失っている。相手方の三成の墓もここ大徳寺にある。
 千利休の邸宅を移築した書院の床の間には大燈国師の筆とされる掛け軸がかけられていた。 大徳寺の塔頭は、どれも美術館といってもいいくらいである。
 客殿南庭は江戸時代初期の造園。
 楓の樹を主とした野趣に富む庭は、見事である。 静寂が身に染み入るようであった。
 小春日和に縁先で寝そべってみたい気がしたが、観光客が多いのが残念である。
 ここは頼めば、縁先でお茶を頂く事ができる。
 楓が多い庭なので、さぞかし紅葉はきれいであろうと思われる。
 石の上に花を栽えて後(解脱)
 生涯自ずから是春

 意志の弱い私には、解脱するなどとても適わぬ事であるが、しばしの間禅寺にて禅の気分に触れる事くらいは許されたい。
 三斎公は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代切っての知将であったが、利休七哲の一人として茶道との深いえにしによって有名である。
 茶道の奥義を究め、歌道をたしなみ、文武両道に秀でた哲理の人であった。
 正室細川ガラシャ夫人が織田の反逆者明智光秀の息女という不利の時代も光秀にくみしなかったのは、三斎公が武人として時代を超えた明晰な洞察を持っていたゆえである。
 ガラシャはキリスト教の洗礼名であり、本名は玉子という。「天性の国色、容貌の美麗比類なく、精神活発、鋭敏、果決心高尚にして才智卓越せり」と日本西教史にも書かれているほど、美しい人であったらしい。

 〒603-8231京都府京都市北区紫野大徳寺町73  
タグ :洛北


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2012年07月21日

亀戸餃子は2皿から

 東京での定宿にしている両国のホテルが満室だったので(錦糸町も混んでいた)、亀戸に泊まることにした。
 亀戸と言えば、亀戸ホルモンか亀戸餃子!? というわけで、今回は亀戸餃子を試してみることにした。 店は駅の路地を入ったとこにあるその名もズバリ「亀戸餃子」。
 カウンター席に案内されて、まずはビールと亀戸餃子を注文、というかアテは餃子しかない。 餃子は2皿から注文することになっている。食べ終わるとおばちゃんが空いた皿の上に次の皿をのせていく。 4枚が限度でした。
 ビール以外には杏露酒などもある。(写真) 誰かのツイッターで杏露酒と枇杷酒がつぶやかれていたので、ちょっと飲んでみた。香りはいいが、私にはちょっと甘いかな。  

Posted by koyuki at 07:00Comments(0)居酒屋

2012年07月15日

詩仙堂・丈山の隠棲地

 「 家康の家臣だった石川丈山が徳川家を離れ、造営した山荘。 
 丈山は大阪夏の陣で戦功をあげながら、それを最後に武士を捨て、文人として生きようとした。
 俗世間を超越し風流の世界に遊んで、九十一歳で歿するまでの三十余年の隠棲地であった。
 死後堂宇は荒廃したが江戸中期に再興され、詩仙堂丈山寺として今に至る。
 丈山の詩に
 「頑固に八十三歳でまだ元気にしている。世間から隠れて早や三十年。がらくたの詩を千余編作った。これで我が人生すべて足る。」 というのがある。(原文は漢詩) 彼は自らを「三足老人」と号していた。

 叡電の一乗寺駅で降りて、ここまで坂道を登って来た。 10分くらい歩いただろうか。
 ここからさらに15分歩けば曼殊院であり、近くには金福寺(芭蕉庵)もある。
 山荘跡らしく、堂は裏山と隣接している。
 もみじが多いので秋の紅葉はさぞ美しかろう。
 池のそばには菖蒲の花が咲いていた。
 早春から秋にかけて、たくさんの花々が目を楽しませてくれる。
 最近は植物園へ行ってもカタカナの覚えにくい名前の花が巾をきかせているが、ここへ来ればそんなことはない。冬の山茶花からはじまって、南天、梅、椿、つつじ、さつき、京鹿の子、額紫陽花、菖蒲、山吹、藤、りんどう、酔芙蓉・・・名も知らぬ花々もたくさんある。ここで出会って、植物図鑑で調べてはじめて知った野花も多い。 
 (擬宝珠ギボウシ・藪茗荷ヤブミョウガ・水引ミズヒキ・大葉升麻オオバショウマ等々)
 そうして紅葉である。
 詩仙堂の紫陽花がいいと聞いて、梅雨時に訪れてみた。ここの紫陽花は手毬のように円く咲くものではなくて、小さな粒花をかこむようにして四ひらの花が咲く額紫陽花である。淡い紫のまばらに咲くその風情がいい。
 夏ともなれば、シンとした静けさの中に響く鹿おどしのコーンという澄んだ音が涼しいかろう。 」

 丈山は徳川のスパイだったと言う説もある。 近にある修学院離宮を造営した後水尾天皇や公家の動きを監視していたというのだが、できれば、それは嘘であってほしいと思う。隠棲地こそ似つかわしいと思うからだ。

 〒606-8154 京都府京都市左京区一乗寺門口町27  

Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2012年07月14日

神田で豊前うどん

 店の名前は武膳(ぶぜん)と言う。 神田小川町にある。ちょうど野らぼうと丸香の間くらにある? でもここは讃岐うどんではなく、九州は豊前うどんだ。発祥は小倉だとか。 
 ここの名物はごぼう天うどん。大きなごぼう天が目印? だが、この日は暑かったので、揚げ茄子とトマトのぶっかけ(写真:名前ははっきり覚えていない)。 ここの麺は弾力のある細麺が特長。そして九州産の醤油を使った出しは、ほんのりとした甘味がある。 いつもお昼時は混んでいる。
 写真2枚目が、武膳の名物「ごぼ天うどん」(ぶっかけ)だ。 ごぼ天がでかーい。  

Posted by koyuki at 07:00Comments(0)麺類

2012年07月08日

三度ずれている二条城

 二条城を造ったとき、徳川幕府は、その頃西欧から入った最先端技術を駆使しているのだが、なぜか二条城は、京都の街割りと比較して、三度ずれている。これは堀川通を歩いてみれば、すぐに分かっる。
 つまり、磁石(方位磁針)を用いて、方位を決定したのだが、ここに落とし穴があった。つまり、「磁石の指し示す方位は、毎年周期的に変化する・・・これを偏角という」 のだが、これが当時は未だ知られていなかったために起きてしまったのが、三度のずれなのである。
 「 元離宮二条城。慶長7(1602)年、徳川家康の命により建てられた。京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。
 家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、ここで行われた。 その後も造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3(1626)年、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣も備えていた。しかし、その後(1750年)、雷火のため天守閣を焼失した。
 慶応3(1867)年、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意した。

 二条城二の丸庭園は池を中心とした庭で、三つの島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示していると云われる。 」
 「 天守閣跡から眺めた二の丸とその背景は比叡山である。
 京都の寺の庭園の借景には必ずと言っていいほど比叡山が遠景として見えている。 」
 「 実は京都には二条城は二つあった。 一つはこの二条離宮であり、もう一つは、これより先に織田信長が足利義昭のために造った二条御所である。烏丸通と丸太町通が交差する西北の区域、今は平安女学院のある辺りにあった。これは近年、地下鉄工事の時に遺跡が見つかっている。
 しかし、信長自身は本能寺を京都での定宿としていた。寺と言っても、当時、市内最大の寺であり、かつ防衛力を持った寺でもあった。二条城に近いということも理由の一つだった。

 二条城には枝垂桜の多い西側の並木と山桜の多い北側の桜並木がある。
 山桜の散り始めた頃(例年なら4月初旬だが、今年は開花が早かったので、3月下旬)、枝垂桜が咲き始める。
 夜にはライトアップもしているらしいが、酒の持ち込みは駄目だろうから行ったことはないが。さぞ、幻想的な眺めであろう。
 他にライトアップされている名所としては清水寺、高台寺などがある。 」

〒604-8301 京都府京都市中京区二条城町541

  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園

2012年07月07日

岡山のB級グルメ

 岡山へ行ったとき、駅前の地下街にあるお好み焼きの店であの「ひるぜん焼きそば」を食べた。(写真) ちょっと辛めのソースに具は鶏肉とキャベツ、麺は太麺だった。 本場の蒜山(ひるぜん)までは食べに行けないので、お手軽に認定店で食べるのもいい。
 写真2枚目は、岡山駅の中央口(2F)近くの売店で買った「えびめし」だ。 簡単に言うと「ご飯に海老などの具を入れて油炒めしソース味に仕上げた料理」 らしい。
 岡山のB級グルメには、他にもホルモンうどん やデミカツ丼などがある。(リンク参照)
  ->岡山はB級グルメの宝庫?  
タグ :B級グルメ


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)地方巡業

2012年07月01日

京都のルーツ神泉苑

 その昔(数万年前)、京都盆地は大きな湖だったという。そして、少しずつ干上がり、湖底が神泉苑として残ったというのだ。つまり、京都のルーツである湖水を今にとどめるのが神泉苑というわけだ。

 「 延暦十三年(794年)桓武天皇が平安京の造営にあたり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地であり、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名付けられた。
 毎年五月一日から四日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言がとり行われる。
 京都に都を移したのは桓武天皇であり、京都には桓武天皇が遺したものが数多くある。
 残念ながら大内裏は残っていないが、ここ神泉苑をはじめ、東寺、大将軍社、比叡山延暦寺、上御霊神社、清水寺・・・。」
 「 もとは東西220m、南北440mと大規模な苑地で、天皇や平安貴族が船遊びや詩歌管弦の宴を催していた。二条城造営の際に境内が縮小された。
 池中の中島には空海の雨乞い伝説を伝える善女竜王が祀られている。
境内に料亭平八があり、私も何度かうどん鍋を食べに来たことがある。 部屋からは神泉苑の池が見えるのだが、いつも来るのは夜なので、こうして昼間に庭を見に訪れたのは初めてである。
 近くには二条城や二条陣屋がある。
 京都に夏の訪れを知らせてくれる祇園祭も初めは八坂神社から神輿をかつぎ出し、神輿の前には六十六本の鉾が立てられ、この神泉苑まで行列が練り歩いたそうだ。 」

〒604-8306京都府京都市中京区御池通神泉苑東入門前町166


  
タグ :洛中


Posted by koyuki at 07:00Comments(0)京都の庭園