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2015年04月26日

西雲院の牡丹


 金戒光明寺(黒谷さん)の塔頭の一つ。1175年に法然上人が丘の上の半畳程の大きさの白河石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびき光が満ちた。これにより上人は、この丘に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりとされる。この石を「紫雲石」という(お堂の中にある)。
 開基の宗厳(ソウゴン)は、秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られたと伝えられ、後に出家して、この石を賜り草庵を結ぶ。その後、多くの念仏者が集い念仏道場として大いに栄えたという。通称「万日寺」と呼ばれる。
 幕末、黒谷一山が京都守護職会津松平侯の本陣となり、西雲院は会津藩戦没者墓地をあずかる。
 文殊塔に至る石段を上り、途中で塔に向かって左に折れ、墓地の中を真っ直ぐ歩いたところに西雲院はある。黒谷さんの塔頭の中では、かなり奥まったところにあるので、山寺のような風情に浸ることができる。
 この日は、牡丹を見に出かけた。旁らで牡丹の花を丹念に写生をする人がいた。

〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:22Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

真如堂


 984年創建の古刹であり、正式名は真正極楽寺。猫を描いた極彩色の「大涅槃図」を安置する。本尊の阿弥陀如来立像は、日本最古の来迎仏で、京都六阿弥陀仏のひとつ。11月15日の「お十夜法要」のとき一般公開される。ちょうどこの頃、一本の木が赤・黄・緑に染まる楓「花の木」も身頃になる。
 春は椿、桜、夏は木槿、菩提樹と沙羅双樹、秋は萩、そうして紅葉を迎える。 写真は夏に参道の両脇に咲いていた木槿の花。 花は一重または八重の白・ピンク・薄紫が見られる。 
 真如堂は東三条院詮子(センシ・一条天皇の母)が浄土念仏の教えを洛中に広め、特に女人を救済するために建てられた。
 本尊の阿弥陀如来は、「うなずきの弥陀」と呼ばれる。寺伝によれば、叡山にて慈覚大師円仁がかやの霊木で如来を彫られ、「京に下って、女人を救い給え」と言われると、三度うなずいた云う。
 真如堂山内の塔頭・吉祥院では、紅葉の前に例年菊花展が催されていた。
 真如堂は三井家(財閥)の菩提寺でもあり、本堂には三井家から奉納されたものが多く目につく(三井の隅立て四つ目結い紋)。
 近くに黒谷さん(金戒光明寺)もあるが、ここ真如堂も法然との関係が深い。法然の三回忌もここで行なわれた。
 参道を登りきると本堂がある。 私はいつも真如堂を訪れるとき、銀閣寺から法然院、安楽寺へと哲学の道を散策した後、坂を下りて白川通りを渡り、急な坂道を登る「東参道」の方から来ることにしている。
 庭(涅槃の庭)も一般に公開されている。 比叡山をはじめ東山三重六峰を借景にし、涅槃をあらわした枯山水。
 庭からは左大文字が見える。大文字山に登っている人まで見える。

〒606-8414京都府京都市左京区浄土寺真如町82  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:20Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

吉田神社


 神楽岡・吉田山にある吉田神社は平安時代に藤原山陰によって建てられた春日四神を祀る藤原氏の氏神に始まる。
 その後、室町時代に吉田兼倶という奇才の持ち主によって大元宮という神殿が建てられ、吉田神道の本山となる。
 吉田兼倶は足利義政、日野富子に付き、応仁の乱の平定に努めたとされる。彼の目指したものは「宗教の統一」であり、この地を諸宗教の中心地とする奇想天外なものであった。
 しかし、今の京都人におそらく吉田神道はあまり知られていない。
 それより、節分の神社としてよく知られている。節分の日に大元宮前に設けられる厄塚は八角の台に、八角の白木の棒を立て、神殿正面から八筋の注連縄を引き渡す。神道では八の数字を尊重する。ここに唯一、吉田兼倶の神道の名残がある。
 吉田神社の前(正確には斜め前辺り)には京都大学のキャンパスがある。私事になるが、仕事の関係でちょくちょく出入りしている。最近は桂に新しくキャンパス(大学院と研究施設)が出来たので、そちらの方へ行く機会が多くなった。
 近くには百万遍知恩寺や真如堂があり、少し足を伸ばせば銀閣寺や哲学の道がある。
 吉田山を登ると(山と言っても丘ほどの高さ)、上に茂庵という木造の由緒ありげな建物がある。今は1階が土産物屋で、2階は喫茶店になっている。東側の席からは如意ヶ岳大文字がよく見える。送り火の夜もやっていて、左大文字や鳥居、舟形まで見えるという。

〒606-8311 京都府京都市左京区吉田神楽岡町30
   
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:14Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

知恩寺


 正式には長徳山功徳院百万遍知恩寺と称する浄土宗大本山の一つである。法然上人を開山とし、古くは今出川釈迦堂などと称した。
 今出川通りと東大路の交差点辺りを百万遍という。この北東にあるのが知恩寺であり、反対側(南)が京都大学の吉田キャンパスである。ある仕事で毎月のように工学部へ通っていた頃、昼休みによく境内で休ませてもらった。研究室の窓からも知恩寺の境内が見渡せた。
 そのシステムは工学部から全学への拡張が、この秋に決まったので、これからも何度となく来ることになるだろう。
 法然の教えは、わかりやすく言えば「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるだけで極楽に行くことができるというものである。
 百万遍とはこの念仏を百万遍唱えることを言う。疫病が流行した年、後醍醐天皇の勅命により、宮中にて十七日間にわたって百万遍の念仏を唱え、効験あって疫病は鎮静化したという。
 広い境内では、古本市なども開かれることがある。大念珠繰りは毎月15日の写経会の後に行われ、この日は境内で手作り市も開かれている。
 今回はじめて特別拝観の折りに方丈の庭を見ることができた。南に面して枯山水庭園が広がっている。白い築地塀を背にして、白砂が波紋を描き、右手前に羅漢石、左奥に地蔵が配置されている。曲線を描いた苔の上に小さな刈り込みと石組が施されている。白と緑の対比が美しい。
 方丈へ続く回廊脇には竹の間の庭がある。苔の緑をなぞるように背の低い竹が植えられ、真ん中に白砂を敷いた庭である。ここに生えている竹は、ここにしか生えないと言われている。
 いつもは御影堂の前の広い境内しか見たことがなかったが、この二つの庭はまた春にでも再び訪れてみたいと思った。

〒606-8225 京都府京都市左京区田中門前町103  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:10Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

霊鑑寺の椿


 後水尾天皇が皇女を開基として創建。椿の名木があり、椿の寺とも呼ばれる。 銀閣寺、法然院、安楽寺、霊鑑寺は哲学の道沿いにある。
 霊鑑寺は、臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院であり、当初は現在の南隣にあって渓流に沿い「谷の御所」とも呼ばれていた。
 椿の寺と呼ばれるだけあって、庭には何種類もの椿の名木が花を咲かせていた。
 霊鑑寺へのつま先上がりの坂を登って行くと右手にあの平家物語を題材にした歌舞伎の主人公として有名な「俊寛僧都忠誠之碑」と刻まれた大きな自然石がある。世に云う「鹿ヶ谷謀議」の俊寛である。
 若紫さんの徒然日記より
『 此処は臨済宗南禅寺派の門跡尼院。別名 椿寺。承応2年(1652)後水尾天皇の皇女浄法身院宮宗澄尼を開山として建立され、貞享4年(1687)後西天皇の旧殿を賜り現在地へ移転。今の表門、玄関、書院、居間はこのときの物。書院は後西院御所の旧殿を移したもので狩野永徳や元信筆の襖絵「四季花鳥図」などがある。本堂は享和3年(1803)将軍徳川家斎の寄進。後水尾天皇遺愛の散椿、白牡丹、日光など数多くの名椿がある。
 又、織田有楽斎の「有楽椿」が咲き乱れていて驚いた。毎月吟行している如庵の庭の有楽椿はまだ咲いていなかった気がするのだが、、。
 案内の先生は私と逆で、「はるばる如庵へでかけるのですよ、、」と仰った。尚、昔の「有楽町で逢いましょう」という歌の地名は有楽斎が住んでいたからそのまま地名になったのですよ、、と教えて下さった。肥後椿の木には開花したときの写真が吊るしてあったが、蘂がギッシリ埋っていて可愛くて一度見てみたいナと思った。
 尼宮様の間は初公開との由だった。宮中から帰るときに、可哀想だから、と持たせた桐製の三等身の御所人形は300体以上あるという。しかし、たまに父君(天皇)が逢いにいらしても普通の親子の様に駆け寄る事は出来ず、御簾超しにまみえるだけと聞き、切ない思いがした。
 父君がお座りになる玉座の分厚い畳みの敷物は、床下からの攻撃から身を守るために圧縮した真綿と藁で作られているそうだ。  』

〒606-8422 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 15:07Comments(0)京都の庭園

2015年04月26日

安楽寺


 鎌倉時代のはじめ浄土宗法然上人の弟子、住蓮房・安楽房が現在の地より東1kmのあたりに「鹿ケ谷草庵」を結んだのが始まりである。
 紅葉が美しいところである。  東方山林に松虫姫・鈴虫姫の悲話を伝える五輪石塔がある。
 当時、新興宗教であった専修念仏(浄土宗)は極めてわかりやすく、実践も容易であったため爆発的?に流行した。 しかし、出る杭は打たれるの例え通り、仏教界(比叡山、興福寺等)から強い反発があった。 そんな折、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守に安楽と上皇の女房が密通したという噂が立ち、上皇の逆麟にふれた。 これだけが理由ではないが、これがきっかけとなって安楽、住蓮、善綽、性願の四名は死罪となり、法然、親鸞他6名の門弟は流罪に処せられた。
 春来たとき、椿の花が屋根の上にこぼれていた。
 住蓮の詠唱する六時礼賛は、その美声と哀調によって多くの女房を魅したと伝えられる。
 安楽は若くして隠遁し法然の門弟となった。法然が「選択本願念仏集」を述作した際には書記役をつとめた。

〒606-8422 京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21  

Posted by koyuki at 15:02Comments(0)京都の庭園