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2015年04月29日

高台寺


 正式には高台寿聖禅寺という。  豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北ノ政所(寧々、出家して高台院湖月尼と号す)が開創した寺である。
 関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗退した影には、北ノ政所が果たした役割は少なからずあった。 加藤清正や福島正則等を家康側に就くよう仕向けたのも彼女であったとも聞く。 この時、豊臣家は二つに割れた。大きくは尾張の武断派と近江の文治派とに。これが豊臣家の滅亡につながっていった。
 写真は開山堂。  庭は小堀遠州作。桃山時代を代表する庭園として知られる。
 寧々には子がなかった。それだからと言うわけではないだろうが、秀吉には側室が大勢いた。だが、淀殿以外には子はできなかった。 秀吉は63歳で亡くなったが、秀頼は56歳の時の子である。後10年長生きしていればとも思うが。
  室町時代からはじまった書院造の「和室」の中で、床の間というのは一種の展示空間(ギャラリー)である。 床の間に掛け軸と生け花は欠かせない。  この生け花、室町時代は立て花といって、既に足利三代将軍義満の頃から同朋衆の中に花の飾りつけの名人がいたと伝えられる。  後に僧侶の中から、それを専門とする人が出てくるのであるが、これがあの池坊のはじまりである。
 詳しくは六角堂のページを見て頂きたい。  境内奥には利休の意匠による茶席であり伏見から移建した時雨亭がある。

〒605-0825 京都府京都市東山区下河原町八坂鳥居前下る下河原町526  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:48Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

知恩院の三門


 浄土宗総本山。法然ゆかりの地であり、入寂された地ともなった。  この三門は高さ24m、桁の長さ27m、木造の門としては世界最大のスケールを誇り、我が国最大。  空・無相・無願という3つの教えを表しているそうだ。
 特別拝観の日に、三門の上に登らせていただいた。 かなり広い。中央に釈迦如来像、両脇に8体づつの十六羅漢像が置かれている。天井には龍と天女が舞っている姿が描かれている。
 釈迦如来像が向いている方角には、京都の町並みが見下ろせる。
  知恩院さんは、日本一大きな銅鐘を10数人の僧侶が体を反らせてつく除夜の鐘でも知られる。
 ここは法然入滅の地である。法然はその晩年、法難に遭い(安楽寺参照)、僧侶の免許を剥奪されて土佐の国に配流された。恩赦にて帰洛が許可された時、既に法然は老いて衰弱していた。
 光明偏照十方世界、 念仏衆生摂取不捨  (阿弥陀如来の光明はあまねく十方世界を照らし、仏を念ずる衆生をば摂取して捨てない。)  正月二十五日(現行歴三月七日)正午、この文を称えて眠るように息絶えたとされる。
 方丈庭園は東山の美しい自然と調和した庭園は大小二つの池があり、作庭作業に加わった僧・玉淵坊は、小堀遠州とも関係が深く、桂離宮の作庭にも関わりがあったという。

〒605-8686 京都府京都市東山区林下町400

  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:43Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

青蓮院の楠木

 天台宗総本山延暦寺の三門跡のひとつ。  粟田御所とも呼ばれる。 三門の脇に大きな楠木が立っている。
 後の室町六代将軍足利義教となった義円は、青蓮院の僧侶であった。四代将軍義持が亡くなった後(五代将軍義量は十九歳の若さで夭折している)、くじ引きによって選ばれた。 義教に言わせると神によって選ばれた。 
 義教は九州制圧、比叡山弾圧、鎌倉府(関東)制圧とそれまでの室町将軍ができなかった事を成し遂げた人にしては過小評価されている。
 義教は恐怖の魔王と呼ばれたが、乱世の時代にあって平和を維持するためには、絶対的権力が必要であった。
 第三世門主は慈円であり、親鸞は九歳の時に慈円について青蓮院で得度したと説明書には書かれているが、正確には慈円が青蓮院へ移ったのは天台座主となって以降であり、親鸞得度当時は隣接していた三条白川房の小院であったとみる方が正しい。
 親鸞はこの時。既に両親とは死別し、叔父に預けられていた。
 境内の北側に植髪堂があり、親鸞得度の時にそり落とした髪を、親鸞童形の像に植えたものを祀っている。
  親鸞は得度の後、直ぐに比叡山の道場へ送られ、聖教を学び始める。 親鸞が得度した年、京都は飢饉のさなかであり、殺生までともなう掠奪と放火がたえず頻発していた。  寺内には室町時代に相阿弥が作ったとされる庭園がある。
  苔の庭に突っ立った大きな楠木と対座してしばし無にならんとす。  親鸞は九歳で得度し、比叡山に登り、この後二十年に及ぶ長い月日を山で修行するのである。 しかし、九十日間「歩々声々念々」を休まずつづける常行三昧という厳しい修行でも仏を見ることができなかった。そうして山を下り、六角堂へ篭るのである。  慈円の歌に次のような歌がある。
  春ぞかし今年おろかに過ごし来て
    花におどろく白川の里
 人は処世に忙殺されて日々を送っているとき、満開の桜に不意を突かれ、過ぎ去った日々を虚しく惜しむのである。僧侶にしてさえであるから、凡夫にはなおさらのこと。

〒605-0035 京都府京都市東山区粟田口三条坊町69−1  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:38Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

金戒光明寺、くろたにさん


 紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称・黒谷さんの名前で親しまれている。寺の始まりは今から約八百年前の鎌倉時代。1175年春、法然上人が浄土宗の確立のため、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが起こりと伝えられている。本尊は阿弥陀如来。
 御影堂大殿には法然上人の座像が安置されている。火災で焼失後昭和十九年に建て替えられたもので、昭和の模範建築物といわれている。
 三門(写真)は1860年に完成。楼上正面に後小松天皇による「浄土真宗最初門」の勅額がある。 時代劇の映画撮影のロケ地としてよく使われているので、見覚えのある人もいるかもしれない。 
  阿弥陀堂は1612年豊臣秀頼により建立。くろ谷に現存する中で一番古い建物。恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。
 家康は秀吉の子・秀頼とその母・淀殿を弄んだ。まず手始めとして、秀吉の貯め込んだ財宝をはき出させるために、寺社の再興に使わせた。淀殿がその子・秀頼の名で行った宗教への投資は、この京だけでも北野天満宮、東寺南大門、叡山の横川の中堂、醍醐三宝院仁王門、南禅寺の法堂、岩清水八幡宮・・・京だけではない。それは近畿及びその周辺の寺社にまでおよんだ。
 その一つがこの阿弥陀堂建立であった。
 そして最後には、方広寺の大仏まで再建させた。そして問題の方広寺梵鐘の鐘銘事件へとつながっていく。
 境内は広い。三門の前では、近くの子供達数名が野球の真似事をしていた。  三重塔へ続く階段を登ってゆくと、眼下に京の町並みや鴨川が見える。
  文久二年(1862)十二月、京都守護職の台命が下り、会津藩主松平肥後守容保が、一千の藩兵を率いて上洛。
 その会津藩の本陣となったのがここ黒谷金戒光明寺だった。
 翌文久三年(1863)三月、この京都守護職を勤める会津藩御預かりという立場で、近藤や土方、芹沢らが新撰組として京都市内の警備の任につく事になる。
 2004年の大河ドラマは新撰組であった。そのこともあって、新撰組ゆかりの地を訪ね歩く旅人を見かける。

〒606-8331京都府京都市左京区黒谷町121  
タグ :洛東


Posted by koyuki at 14:31Comments(0)京都の庭園

2015年04月29日

円徳院


 豊臣秀吉の妻・北ノ政所(ねね)の終焉の地とされる。
 寧々、禰々、貴族になってからは寧子とも書いた。また、関白の正室は北ノ政所と呼ばれる慣例があった。宮中での公文書では「豊臣吉子」と書かれた。従一位という女性としては最高の位階保持者であった。秀吉は彼女を大事にした。おのずと豊臣家に対する彼女の発言権は大きなものとなった。特に尾張出身の武断派からは重んじられた。
 円徳院の前の道(石畳)はねねの道と呼ばれ、よく観光ガイドや雑誌等でもみかける。
 また、円徳院の出口あたりはこの入り口とは打って変わってにぎやかだ。みやげ物や喫茶店があり、女性客でにぎわっている。
 徳川家康は北ノ政所・寧々を大事にした。秀吉の死後、二年目に起きた関ヶ原の戦いで家康が勝利した裏には、寧々の豊臣家での武断派への影響が大きかった。武断派は寧々の言葉に従い、家康側に付いたのである。彼女は、次は家康の時代であると悟っていたのかもしれない。高台寺を建立するにあたっても家康の援助があったと聞く。
 京都で豊臣時代の高貴な婦人の寺と言えば、大徳寺に芳春院というのがある。前田利家の妻・お松の法名を芳春院と言う。お松とは、岐阜城下の織田家侍屋敷で隣同士の付き合いをしていた「木槿垣の垣根ごし」の立ち話をしていた仲である。両方の夫を亡くしてからも二人の親交は続いた。
 写真は北庭。もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつである。  賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式だが枯山水となっている。このように多数の巨岩大岩がふんだんに置かれている庭は珍しく。これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。
関ヶ原の戦いで、豊臣家は北ノ政所に従った尾張の武断派と淀殿の党派と言ってもいい近江系の文治派の真っ二つに割れた。家康はこれに乗じて天下を得たのである。結果とした豊臣家を滅ぼしたのは、北ノ政所と淀殿、つまり秀吉の妻・妾の争いであったところが、悲しい。  

Posted by koyuki at 14:24Comments(0)京都の庭園