2015年04月18日
法然院

鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の安楽坊・住蓮坊と共に草庵を結んだことに始まる。
山門を入ると、両側に白い盛砂がある。 水を表す砂壇の間を通る事は、心身を清めて浄域に入ることを意味している。
法然は長年比叡山に篭もって仏教学を極めた学者であったが、修行の果てにたどりついた結論は阿弥陀の本願を信じ修行を捨て(絶対他力)愚鈍の身になることであった。
問 : 酒飲むは、罪にて候か。 法然 : まことには飲むべくもなけれども、この世の習い。
方丈は、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿を移建したものである。 また、本堂北側の中庭に咲く樹齢三百年の三銘椿(五色散り椿・貴椿・花笠椿)が整然と植えられている。
春の特別拝観時に、お茶をいただきながら座して眺める三本の椿は格別である。
罪の軽重をいわず、ただ念佛だにも申せば往生するなり、別の様なし。 法然
〒606-8422京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30
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2015年04月18日
円光寺

庭園の入り口近くにあった大きなつくばいには椿の花が飾られていた。 詩仙堂のすぐ近くにあるのだが、趣は異なる。 庭園の奥には大きな池があり、たくさんの鯉が泳いでいた。
〒606-8147 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13
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2015年04月18日
安養寺

江戸時代初期には慈円山は「円山」と称され、安養寺では六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭があった。各塔頭には贅を尽くした庭園があり、それぞれが貸座敷を営んで大変賑わったという。元禄期には最盛期を迎えた。明治には、まず弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していった。
左阿弥は、1849年(嘉永2年)に料亭となった後、そのまま現在に至っているが、ホテルは火災に遭い現在はかつての庭園の跡や、塔頭の敷地の跡である平場のみが公園として残っている。 本尊は阿弥陀如来であるが、ここの阿弥陀の台座の蓮華は逆さについている珍しい物である。
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2015年04月18日
粟田神社

他にもいくつかの口がありますが、このあたりが一般的ではないでしょうか。
その一つである粟田口にあるのが、ここ粟田神社です。明治の神仏分離前は、感神院新宮または粟田天王社と呼ばれていたらしい。主祭神は八坂神社と同じ牛頭天王である。 ・・・粟田山あわだつ雲は桜なりけり
粟田山とは山頂を将軍塚と呼ぶ華頂山の別名。神社の横から将軍塚へ登る道が続いている。山峡になっているので、霧雲が湧き立つことがある。このあたりは山桜も多い。春の景観は秋成の歌のごとくである。
写真は祭の前日、飾り付けが行われ、剣鉾が出されたところを撮ったもの。普段はひっそりとしている。
粟田の祭は10月10日に行われる。京都でも少なくなった剣鉾差しが見られる祭でもある。
数基の鉾のなかに瓜鉾がある。八坂と同じく、ここでも瓜が大切なものとされている。
かっては京焼と言えば、ここ粟田口にあった粟田焼が有名だったという。今は勿論清水焼だが。
〒605-0051 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町
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2015年04月18日
聴松院で湯豆腐

入り口には湯どうふの看板がかかっている。 冬に訪れた時は寒かったので、湯豆腐を食べて温まった。
紅葉シーズンの土日等は観光客が並んでいることもある。 庭園を見ながら湯豆腐が食べられる。
寒かったので縁側ではなく、部屋の中で火鉢の上におかれた湯豆腐の鍋を3人(子供と私)で囲んで食べました。
庭は相阿弥作の池泉回遊式庭園である。 冬、お堂の前には雪をつけたように白い梅の花が咲く。
〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86−15
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2015年04月18日
金地院の庭

庭園への入り口に大徳寺から移建された明智門でがある。 明智門を入ると弁天池があり、池ではハンゲショウ、カキツバタ、スイレンの花々が咲く。 冬にはサネカズラの赤いつややかな実が冬枯れた庭に彩りを添えてくれる。花は夏に咲くが、冬の赤い実とは対照的に地味な花である。
写真は方丈の庭.。小堀遠州作の鶴亀の庭園。 江戸初期の代表的な枯山水である。 方丈の庭の裏には東照宮があり、徳川家康の遺髪と念持仏が奉られている。
〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86−12
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